中国戦線での航空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:49 UTC 版)
日中戦争で中国各地を占領した日本軍は、太平洋戦争開始後も中国戦線で多くの重要都市を勢力下に置いていた。漢口も日本軍に占領され、1944年(昭和19年)当時は汪兆銘政権の湖北省の省轄市として統治されていた。 太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)、アメリカ陸軍航空軍は中国戦線を担当する第14空軍(司令官:クレア・リー・シェンノート中将)を編成し、同年11月に新竹空襲を成功させるなど中国戦線での対日航空作戦を本格化させた。さらに、アメリカ軍は、最新鋭の長距離爆撃機であるB-29爆撃機を中国に配備して日本本土を攻撃することを計画し(マッターホーン作戦, en)、B-29爆撃機装備の第20爆撃集団を第20空軍下に新編するとともに、成都近郊に大規模な航空基地を建設した。1944年(昭和19年)6月の八幡空襲を手始めに、第20爆撃集団所属のB-29爆撃機は日本本土などに対する戦略爆撃に着手した。その攻撃は、九州北部のほか、中国北部や台湾、満州にも及んだ。ただ、第20爆撃集団の使用する燃料弾薬などの物資は、イギリス領インドからハンプ越え(en)と称するヒマラヤ山脈上空ルートを通り昆明市経由の空輸でわずかずつ運ぶため、1機あたりの出撃回数が月2回程度に制限されていた。 一方、日本軍の状況は、1944年2月に中国戦線の航空部隊として第5航空軍を編成していた。日本軍は、アメリカ第14空軍の活動活発化や新型爆撃機B-29の出現情報から、中国を拠点としたアメリカ軍機による日本本土空襲を警戒するようになった。そこで、日本の支那派遣軍は、1944年4月にアメリカ軍の航空基地制圧を目的の一つとして大陸打通作戦を発動し、衡陽などの航空基地を占領した。しかし、日本軍の航空戦力は太平洋方面での戦闘に主力を注いでいるため質量共に低下しており、中国戦線での制空権争いで劣勢になりつつあった。1944年11月13日時点での日本陸軍第5航空軍の稼動兵力は、各種戦闘機48機・九九式双発軽爆撃機38機など総計152機を保有するだけであった。第5航空軍は防空戦力を漢口など武漢地区に集中配備しており、戦闘機装備の4個飛行戦隊のうち飛行第25戦隊・飛行第48戦隊・飛行第85戦隊(12月中旬に転入)の3個戦隊を集めていた。第5航空軍は、1944年9月8日から11月21日までの6回にわたり、成都周辺のB-29爆撃機を狙って小規模な夜間空襲を繰り返していたが、大きな戦果は上がっていなかった。逆に12月8日には、南京市の日本軍航空基地がアメリカ軍P-51戦闘機の攻撃を受けて、一挙に27機の航空機を失うなど消耗が激しかった。
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