漢口大空襲
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漢口大空襲(かんこうだいくうしゅう)は、太平洋戦争・日中戦争後期の1944年12月17日に、アメリカ陸軍航空軍が日本勢力下の漢口(現武漢市の一部)に対して行った航空攻撃である。戦闘の結果、日本陸軍の防空戦闘機隊は大きな損害を受け、漢口の市街地の半分が焼失した。アメリカ軍がB-29爆撃機と焼夷弾(ナパーム弾のM69焼夷弾 [1])による大規模な都市爆撃を行った最初の事例であり、その後の日本本土空襲において焼夷弾を使った絨毯爆撃戦術を導入する参考にもなった。
注釈
- ^ 漢口大空襲の以前のB-29による漢口空襲としては、1944年7月8日に長崎県佐世保市などを目標とする攻撃隊18機のうち、故障で引き返した2機が漢口に投弾している[7]。
- ^ 第21爆撃集団(司令官:ヘイウッド・ハンセル准将)は、1944年11月24日の東京空襲から日本本土空襲を開始している[8]。
- ^ 地上撃破された日本軍機の内訳は、炎上が戦闘機8機・九九式双発軽爆撃機4機・一〇〇式司令部偵察機1機、大破が戦闘機6機[11]。
- ^ CACWのP-40N戦闘機3機は中国軍の梁山飛行場まで辿り着いていたが、梁山飛行場の守備兵は日本機の夜間空襲を警戒して滑走路の誘導灯を点灯しなかった[13]。
出典
- ^ Plung, Dylan J. (2018年4月15日)“The Japanese Village at Dugway Proving Ground: An Unexamined Context to the Firebombing of Japan.” The Asia-Pacific Journal: Japan Focus. Volume 16, Issue 8, Number 3.
- ^ 大谷内(1996年)、205頁。
- ^ 防衛研修所(1974年)、545頁。
- ^ 防衛研修所(1974年)、548頁。
- ^ 防衛研修所(1974年)、549頁。
- ^ a b c d e f g h i j k Craven (1953), pp. 142-144.
- ^ Craven (1953), p. 104.
- ^ 大谷内(1996年)、210-211頁。
- ^ 大谷内(1996年)、212-213頁。
- ^ a b c d e f 中山(2007年)、311-313頁。
- ^ a b c d e 防衛研修所(1974年)、550頁。
- ^ a b c d e 大谷内(1996年)、218-219頁。
- ^ a b 中山(2007年)、318頁。
- 1 漢口大空襲とは
- 2 漢口大空襲の概要
- 3 背景
- 4 戦闘経過
- 5 結果と影響
- 6 参考文献
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