兵站拠点漢口に対する攻撃計画
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「漢口大空襲」の記事における「兵站拠点漢口に対する攻撃計画」の解説
第20空軍麾下の第20爆撃集団が長距離戦略爆撃としてのマッターホーン作戦に従事していたのに対し、第14空軍のシェンノート司令官は、シーレーンなどの兵站攻撃に重点を置くべきだと主張していた。シェンノートは、アメリカ陸軍航空軍司令官兼第20空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将に対し、中国戦線における日本軍最大の兵站拠点と目された漢口を攻撃するため、第20爆撃集団を投入するよう要求した。アーノルドは、B-29は戦略爆撃に使用するべきだとして戦術的な漢口空襲への協力を一度は拒み、本来の攻撃目標が悪天候などで爆撃不能だった場合の予備的攻撃目標として漢口を指定しただけであった。しかし、1944年10月に中国・ビルマ・インド戦線のアメリカ軍総指揮官に着任したアルバート・ウェデマイヤー中将は、日本側の大陸打通作戦による危機感の高まりからシェンノートの提案を強く支持し、第20爆撃集団に延べ100機規模による大規模空襲を命令した。第20爆撃集団司令官カーチス・ルメイ少将(8月29日着任)は、ウェデマイヤー中将の指揮権が第20爆撃集団に及ぶのか本国に確認した後、ついに漢口空襲に動き出した。 ルメイ少将がウェデマイヤー中将及びシェンノート中将とそれぞれ打ち合わせをした結果、第一波として第20爆撃集団第58爆撃団のB-29が長江岸の市街地のドックや物資集積所を爆撃し、その1時間後に第14空軍機が郊外の飛行場へ攻撃を仕掛けることになった。これは、第一波の第20爆撃集団機が日本軍戦闘機を迎撃に誘い出し、その日本軍戦闘機が補給のため着陸した隙を狙い、第14空軍機が飛行場を時間差攻撃するという作戦であった。出撃するB-29の兵力は当初60機と予定されたが、エンジンの改修が終わっていない機体も投入して最終的に94機が集められた。攻撃日は当初12月15日と設定され、その後に12月18日へ変更された。 そして、第一波のB-29爆撃機は、新戦術として主に焼夷弾を使用することが計画された。第二次世界大戦期のアメリカ陸軍航空軍は通常爆弾による精密爆撃戦術を重視しており、第20爆撃集団やマリアナ諸島に進出した第21爆撃集団のB-29も、当初は工業地帯を目標として昼間の高高度精密爆撃を主に行っていた。しかし、ジェット気流や視界を遮る雲に妨げられて爆撃照準が難しかったことが原因で、満足のいく戦果は得られなかった。そこで、焼夷弾による絨毯爆撃(無差別爆撃・地域爆撃)が新戦術として検討された。ルメイ少将は、アーノルド大将の意向を受けて、ナパーム焼夷弾を漢口に対して使用することにした。94機の出撃機のうち84機が焼夷弾を搭載した。なお、火災による煙で攻撃目標が見えなくなるおそれがあったため、B-29は4群に分かれて風下の南から北へ、それぞれ異なった区域を異なった形式の焼夷弾で順に爆撃する計画とされた。
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