米軍の空爆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 14:48 UTC 版)
1944年12月17日、アメリカ陸軍航空軍第20爆撃集団のB-29が飛来。漢口の陸軍航空隊は第8飛行団長の青木喬少将の統一指揮の下で、飛行第85戦隊の四式戦闘機18機および飛行第25戦隊・第48戦隊の一式戦闘機約20機が迎撃。日本側は、B-29爆撃機2機を撃墜(ただし不確実)・11機を撃破と記録している。14時36分頃、第二波攻撃隊として第14空軍のB-24爆撃機34機・各種戦闘機149機が、5群に分かれて漢口上空に飛来した。第二波攻撃隊は、市街地を爆撃するとともに、日本軍飛行場を襲撃した。日本側は空襲警報を発して、戦闘機隊の可動全機を迎撃に繰り出したが、多数のアメリカ軍護衛戦闘機に阻まれてB-24爆撃機にはたどり着けなかった。空中戦の結果、日本側はP-51戦闘機4機撃墜・3機撃破の戦果を主張しているが、代償に日本機4機が撃墜された。飛行場では日本軍航空機13機が離陸できないまま攻撃を受けて炎上し、6機が大破したほか、施設にも若干の損害があった。飛行第85戦隊ではエース・パイロットの若松幸禧少佐と柴田力男少尉らが戦死した。(漢口大空襲)。 1945年1月14日、再度連合軍の波状空襲を受け飛行第48戦隊が迎撃。
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