米軍の接収、藤沢海軍航空隊場跡地の争奪戦とグリーンハウス
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「グリーンハウス (藤沢市)」の記事における「米軍の接収、藤沢海軍航空隊場跡地の争奪戦とグリーンハウス」の解説
終戦後、1945年(昭和20年)9月2日、第188空挺グライダー歩兵連隊が藤沢に到着した。連隊は藤沢市などの湘南地域の旧日本軍施設に分駐し、このとき藤沢海軍航空隊も接収された。そしてグリーンハウス内には第12連合航空隊司令部が設置され、旧藤沢海軍航空隊には約550名の米兵が駐屯した。しかし藤沢など湘南地域の駐留米軍はめまぐるしく交替がなされ、駐留兵員も徐々に減少し、グリーンハウスに置かれた司令部機能も低下していく。結局、1947年(昭和22年)9月には旧藤沢海軍航空隊から米軍は完全に撤収する。 旧陸海軍の軍事施設等は、戦後、大蔵省が管理することになった。旧藤沢海軍航空隊の場合、東京財務局が管理を担当することになった。戦後まもなくは米軍が接収したものの、その米軍がさほど使用する気配を見せずに撤収していく状況を見て、藤沢中心部から近く、しかも広大な敷地を持つ旧藤沢海軍航空隊の跡地を巡って、熾烈な争奪戦が繰り広げられることになる。 藤沢海軍航空隊の土地は接収前は藤沢カントリー倶楽部であり、実は接収されていた際の地代はほとんど未払いのままであった。そこでゴルフ場として復活させようとの声も挙がったが、戦後の混乱期にゴルフ場の敷地問題に詳しい旧ゴルフ場の副支配人が亡くなったこともあって、再開は断念されることになった。ゴルフ場としての復活がなされぬ中、旧藤沢海軍航空隊の跡地をめぐって様々な団体が動きを見せだした。最初に動き出したのがカトリック系の社会事業家たちであった。社会事業家の鶴飼正男は終戦後わずか3か月足らずの10月28日、戦災孤児や浮浪児を保護する目的の施設を米軍接収中の旧藤沢海軍航空隊敷地内に設けた。施設は地名から唐池学園と名付けられた。戦前期から母子寮の経営を行うなど、盛んに社会事業を展開してきた平野恒子も、1945年(昭和20年)10月には進駐軍と接触して自らが進める社会事業の必要性を説明した。平野の声は進駐軍を動かし、その結果、接収中の旧藤沢海軍航空隊内に引揚者、母子の保護、支援を行う施設の建設が進められることになった。 社会事業家たちの中で最も成功裡に藤沢海軍航空隊跡地を利用することになったのが聖心愛子会であった。藤沢に本部があったカトリック系の聖心愛子会は、やはり広大な藤沢航空隊の跡地に戦災孤児のための施設や、母子寮、乳児院、女学院などの建設をもくろんだ。1945年(昭和20年)9月頃、聖心愛子会の責任者はまずグリーンハウスを訪れ、駐留している米軍の責任者に面会を求めた。グリーンハウスの食堂で面会をした米軍の責任者は、自分たちとしては聖心愛子会の社会事業に土地を提供するのは構わないが、日本政府の許可も貰っておくべきではないかとアドバイスした。その後、大蔵省、そして神奈川県、藤沢市との粘り強い交渉の結果、旧藤沢航空隊跡地の中で最も広い敷地を確保することに成功する。もちろんこの成功の背景に進駐軍のバックアップがあった。この時に確保した敷地には、現在も聖園女学院中学校・高等学校などがある。カトリック系の社会事業家らが揃って藤沢海軍航空隊跡地の利用が可能となったのは、カトリック系であるということが進駐軍の理解を得やすかったこととともに、戦後まもなくの混乱期、戦災孤児、浮浪児、引揚者などの問題が大きな社会問題化しており、この問題に取り組む社会事業家の活動が受け入れられ、進駐軍からの強い支援を受けるようになったという背景があった。 藤沢航空隊跡地を狙っていたのは社会事業家ばかりではなかった。広大な土地は農地としても魅力十分であり、農民たちも農地として使用できるように運動を強めていった。運動は個人個人、そして集団でも行われ、特に日本農民組合は1946年(昭和21年)夏に、農地利用を要求して藤沢市役所に押し掛ける騒ぎとなった。結局、前記の社会事業に広い土地を割かれ、農地となった藤沢航空隊跡地は一部に止まった。また藤沢市としても市中心部に近く、広大な敷地を持つ藤沢航空隊跡地の利用に関心を持っていた。そして更に藤嶺学園が跡地利用を強く求めていくことになる。
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