藤沢海軍航空隊とは? わかりやすく解説

藤沢海軍航空隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/08 09:56 UTC 版)

藤沢海軍航空隊(ふじさわかいぐんこうくうたい)は、大日本帝国海軍の部隊、教育機関。

概要

航空無線兵器整備教育を目的として、電波・光学兵器の整備員を養成する唯一の航空隊であった。

司令部は、グリーンハウス神奈川県藤沢市藤沢カントリー倶楽部のクラブハウス)に置いた。

レーダー搭載機そのものが少なく、実際に飛来して整備する必要があったのは、むしろ光学計器類であった。

教育期間は6か月間で、最初の2か月間は新兵教育期間とされ、約1万人が教育を受けた。

毎朝江の島往復のマラソンが行われた。

高等科以外は銃を担いで基地内を走るのが日課で、それが終わると、戦闘機電話(三式空一号無線電信機改三)の訓練が行われたが、教科書は兵士数分なく、授業のたびに配布・回収された。

沿革

  • 1944年(昭和19年)
    • 6月1日 - 連合航空総隊隷下第13航空戦隊隷下第13連合航空隊隷下の教育隊として開隊する[1]
    • 6月20日 - 第1期が入隊する。
    • 10月1日 - 横須賀鎮守府隷下第20連合航空隊に編入される。
  • 1945年(昭和20年)
    • 3月 - この部隊に所属の海軍特別年少兵200名あまりが静岡県賀茂郡浜崎村柿崎(現在の静岡県下田市柿崎)へ派遣され、当地で特殊潜航艇海龍」・特攻艇「震洋」等の格納壕造営に従事[2]。のちに隣接する下田町に第五七震洋隊、第六海龍隊などがそれぞれ配備された。現在、「ハリスの小径」の名称で整備された遊歩道沿いおよびその周辺に格納壕の遺構がある[2]。また、2001年10月には戦友会や地元有志により記念碑が建立された[2]
    • 8月20日 - 解散式を行う。
    • 8月25日 - 第20連合航空隊解隊により、解隊される。

司令

  • 上田泰彦(前筑紫艦長):1944年(昭和19年)6月1日 - 1945年(昭和20年)8月25日

脚注

  1. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1492号
  2. ^ a b c ハリスの小径 (下田)---下田市観光ガイド『駿河湾★百景』”. 伊豆・駿河観光ガイド『駿河湾★百景』. 2025年10月8日閲覧。

参考文献

  • 椎谷和雄『藤沢海軍航空隊研究』、藤沢市史研究30、藤沢市文書館運営委員会編、1997年3月
  • 「規律の中の青春」、甲飛藤空会編、文芸社、2000年2月、ISBN 978-4887379961

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