藤沢海軍航空隊時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:31 UTC 版)
「グリーンハウス (藤沢市)」の記事における「藤沢海軍航空隊時代」の解説
横須賀海軍司令部に徴用された藤沢カントリー倶楽部は横須賀海軍航空隊の基地として使用される方針であると報道された。ゴルフ場の閉鎖後、まず境界線の範囲確認がなされた後、1944年(昭和19年)4月に航空隊の設立委員会が設立され、旧藤沢カントリー倶楽部に先遣隊が派遣された。そして6月1日には藤沢海軍航空隊が正式に発足した。藤沢海軍航空隊は戦闘機電話、電波探信儀などの無線兵器の整備員の養成を目的とする教育隊であった。 藤沢海軍航空隊の司令部はグリーンハウス(旧藤沢カントリー倶楽部クラブハウス)内に設置された。開設当時、藤沢海軍航空隊内の兵舎等の建物はまだ建設中で、グリーンハウスしか建物が無かった。また兵員も20 - 30名と少なく、兵士たちはグリーンハウス内に設置されたベットで寝起きし、調理場もクリーンハウス内にあった。 滑走路、防空壕、そして兵士が起居する兵舎などの設備は徐々にではあるが整備されてきた。そして藤沢海軍航空隊の体制も、当初、第13連合航空隊に所属していた藤沢海軍航空隊は、1944年(昭和19年)10月1日に第20連合航空隊に編成替えとなった。第20連合航空隊の司令官には海軍少将久邇宮朝融王が任命され、グリーンハウス内に執務室が設けられた。皮肉なことに前述のように久邇宮朝融王は1932年(昭和7年)に行われた藤沢カントリー倶楽部の開場式に出席しており、藤沢カントリー倶楽部会員としてゴルフを楽しんでいた。なお、第20連合航空隊の本部機能がグリーンハウスに設けられることに伴い、藤沢海軍航空隊の本部指令室はグリーンハウス北側に建設された建物内に移動した。 発足当初は20 - 30名であった兵士も、その後続々と入隊して、やがて約1万名の兵士が練習生として無線兵器の整備員養成教育を受けるようになった。養成教育はまず銃を担いで航空隊内を走り回る訓練から開始された。もともとがゴルフ場であったためこのような訓練の場としてはうってつけであり、かなり厳しいメニューが課されたため、ついて行けずに除隊となる者もいた。しかし2か月間の訓練の後に無線教育が開始されるのだが、1万名分の教科書が用意できなかった。しかも滑走路は完成したものの、航空隊でありながら肝心の使用可能な飛行機が白菊1機のみであり、しかもその1機も燃料不足のためにほとんど使用されることはなかった。無線兵器の着脱訓練は、掩体壕内にあった廃機で行われたという。そして6か月間の養成教育を終えた練習生は全国各地の基地に配置されていった。 藤沢海軍航空隊は1945年(昭和20年)8月15日後の16、17日にも演習を行ったと伝えられているが、8月20日には解散式が行われた。結局海軍航空隊時代はわずか2年足らずで終了を迎えた。
※この「藤沢海軍航空隊時代」の解説は、「グリーンハウス (藤沢市)」の解説の一部です。
「藤沢海軍航空隊時代」を含む「グリーンハウス (藤沢市)」の記事については、「グリーンハウス (藤沢市)」の概要を参照ください。
- 藤沢海軍航空隊時代のページへのリンク