海軍飛行場時代
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1943年(昭和18年)10月24日 - 藤沢カントリー倶楽部を閉鎖し、同地周辺が、横須賀海軍航空隊の基地となる。 1944年(昭和19年)6月1日 - 藤沢海軍航空隊が置かれる。クラブハウス(グリーンハウス)は司令部として利用され、開隊当初は兵舎が完成していなかったため、クラブハウスが兵舎と調理場も兼ねていた。 1945年(昭和20年)8月25日 - 藤沢海軍航空隊が解隊される。 1945年(昭和20年)9月2日 - 連合国軍550人が、本飛行場に進駐。連合国軍は、飛行場として十分利用できず、約1年で撤退した。跡地はゴルフ場や元地主に返還され、聖園女学院高等学校、民間飛行場などになった。唐池の施設部宿舎は、戦災孤児の養護施設(唐池学園)になった。 1947年(昭和22年) - 通信学校跡に藤沢商業高等学校(現・藤沢翔陵高等学校)が移転。 1947年(昭和22年) - 1950年(昭和25年) - 航空隊施設の一部が、引揚者用住宅に転用される。 1948年(昭和23年) - 一部が、藤沢市営競技場となる。 1952年(昭和27年)6月 - 東洋航空工業設立。12月29日 - 飛行場隣接地に、日本エアキャリアーサービス株式会社(現在の関東航空計器株式会社)設立。 12月30日 - 日本の国産機としては2番目のTT-10を東洋航空工業が製造した。
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