海軍関係施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:48 UTC 版)
江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった日本海軍関係施設は以下の通り。 海軍本省 1872年(明治5年)、元松平定信別邸のあった場所に創立。海軍卿旗を掲揚した浴恩園内の築山は「旗山」と呼ばれた。この地は後に築地市場となり、水神社遥拝所境内に海軍発祥の石碑として「旗山」の碑が設置された。 海軍兵学校 1869年(明治2年)、海軍操練所として元芸州屋敷内に創立、翌年に海軍兵学寮に、さらに1876年(明治9年)に海軍兵学校と改称された。1887年(明治20年)に広島・江田島に移転された。 海軍軍医学校 1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。1880年(明治13年)に廃校となるが、1882年(明治15年)に海軍医務局学舎として芝に再興され、1889年(明治22年)に海軍軍医学校と改称された。さらに1908年(明治41年)に築地に移転され、1929年(昭和4年)に築地五丁目に新築移転され、現在敷地は国立がん研究センター中央病院となっている。 軍艦操練所 1857年(安政4年)、江戸幕府が講武所内に軍艦教授所として開設。1859年、勝海舟が砲術教授となり改名。オランダから寄贈された「観光丸」(旧名「スンビン号」)で乗員訓練が行われた。 海軍経理学校 1888年(明治21年)、それまで芝山内天神谷にあった海軍会計舎を移転、1907年(明治40年)に改名。1932年(昭和7年)に勝鬨橋西詰に新築移転され、太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)に廃校となった。
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