米軍の攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 18:57 UTC 版)
17日未明、第58任務部隊は高速を発揮しつつ日本軍の哨戒ルーチンを避けて、トラックの東北東約90海里の位置に到達した。数度にわたる空襲をトラックに対し実施した。日本軍はレーダーにより午前4時20分頃には最初の大編隊を捉えていたが、南東方面の基地からマーシャル諸島に向かうアメリカ軍大型機の編隊と即断した。内南洋方面部隊には第一警戒配備を命じたものの、トラック地区は平常配備のままとした。機材や通信施設の不備により伝達が遅れ、練成部隊では機銃の準備に手間取った。また警戒解除直後の気の緩みもあって、邀撃準備は進まなかった。環礁内の駆逐艦、特務艦、輸送船には、米軍機動部隊接近の情報は伝えられなかったという。 米軍攻撃隊は計画通りの奇襲に成功した。第1波は5隻の大型空母から発進した戦闘機72機を主力としており、46分でトラック上空に到達、迎撃に上がってくる可能性がある航空兵力の掃討を図った。対する日本側航空隊のうち二〇一空や二〇四空のような練成部隊は機銃弾の積み込みから始めなければならなかったが、それでも両航空隊は初動で35機を迎撃に離陸させた。ただし、基地の整備員の動きはラバウルなどに比較すると手馴れず緩慢であった。ほか、五〇一空が攻撃隊として爆装零戦を25機、他に水上機17機が退避の為離陸した。発進機の合計は、竹島より零戦35と爆装零戦25、夏島の水上機12、春島の零観5、計77であったという。離陸直後や発進中に米軍機に襲撃され、邀撃に飛び立てたのは40機ほどであった。また、離水した直後に撃墜される水上機もあった。水上機の未帰還機は、水戦6、観測機5であった。 アメリカ軍は、まず航空施設に対して空襲を実施し、その後、日本軍の基地施設および在泊艦船に対する攻撃を実施した。攻撃隊の往復は2時間、トラックでの滞空は40分ほどのルーチンであった。第2波は戦闘機に護衛された急降下爆撃機が主体で、6隻の空母から発進している。17日の空襲は9波に達し、日本側の迎撃機は急速に消耗、実動機数は1800時点で戦闘機1(戦闘開始前40)・艦攻5機(戦闘開始前不明)であった。この1日で270機の機体を喪失、補給された最新の零戦52型100機も戦わずに破壊された。記録では、南東航空廠支廠で保管中の94機、第一〇一航空基地隊で保管中の67機(18日空襲で9機)が地上で被害を受けた。 制空権を奪ったアメリカ側は艦船に対する空襲を開始した。軽巡洋艦那珂はトラック環礁の北水道を航行中に速報を受け、外洋に出て空襲を回避しようとした。だが北水道付近で機動部隊艦載機の波状攻撃を受け、午後2時頃に沈没した。生存者は特設艦艇に救助された。駆逐艦追風は、阿賀野乗員の救助後に脱出船護衛のためトラックに引き返すよう命じられたが、空襲により阿賀野生存者もろとも撃沈された。港内にいた工作艦明石には、爆弾1発が命中したが不発。特務艦宗谷は回避行動中に座礁した。駆逐艦松風は機銃掃射で負傷者多数を出し、天応丸(病院船)に横付けして負傷者を引き渡した。修理中の駆逐艦文月は直撃弾を受けて浸水被害を受けた。特設巡洋艦愛国丸は水上機母艦秋津洲に接舷して、メレヨン島配備予定の海軍部隊を移送していた。作業中に空襲がはじまり、被弾した愛国丸は貨物のダイナマイトに誘爆、沈没した。その他、環礁内の補助艦船は空襲により次々に撃沈・撃破されていった。 さらに、9時23分、計画に沿って第58任務部隊から戦艦2隻を中心とする水上部隊を分派して第50.9任務群(TG50.9)とした。この部隊は、レイモンド・スプルーアンス大将が直率することになった。軽空母カウペンスの戦闘機18機が護衛する。分派された部隊は西進し、11時47分にはトラック島北水道北方10数マイルの地点に到達した。封鎖部隊は脱出にかかった艦船(第4215船団など)を発見し、艦砲射撃を加えた。攻撃の間も、スプルーアンスは戦闘の指揮を委譲しないで自ら直接指示を出し続けた。 日本側は、引揚民間人等を乗せた特設巡洋艦赤城丸を、練習巡洋艦香取と第4駆逐隊(駆逐隊司令磯久研磨大佐:舞風、野分)の護衛で脱出させようとしていた(第4215船団部隊、指揮官は香取艦長小田為清大佐)。香取は1940年11月15日より第六艦隊旗艦を務めていたが、1944年2月15日付で海上護衛総司令部に編入されて内地帰投予定であり、第六艦隊司令部は特設潜水母艦平安丸に旗艦を変更していた。また第4215船団部隊の出港は2月16日だったが、赤城丸の荷役がおくれたため1日延期されて17日となった。相次ぐ船舶の入港で港湾労働者が足りなかったためだという。 午前4時30分に出港、午前7時に北水道を通過する。まもなく米軍機動部隊から飛来した急降下爆撃機や雷撃機による第4215船団部隊への空襲が始まった(戦闘経過の詳細は、当該艦艇の記事を参照)。一連の空襲により赤城丸が沈没し、香取と舞風が航行不能になった。前述のように、アメリカ軍第50任務部隊司令官のレイモンド・スプルーアンス大将は水上砲戦で第4215船団を撃滅すべく、航空隊に「あの艦(香取、野分、舞風)を撃沈するな」と電文を送り、機動部隊からアイオワ級戦艦2隻・巡洋艦2隻・駆逐艦4隻を抽出するとニュージャージーに将旗を掲げて進撃を開始していた。まず艦隊の針路上に出現した特設駆潜艇第15昭南丸(日本水産、355トン)を「ニュージャージー」と駆逐艦が撃沈した。 12時16分、野分の乗組員は接近する米戦艦2隻を水平線上に発見した。12時23分、スプルーアンスは戦艦ニュージャージーとアイオワおよび駆逐艦2隻で健在の野分を追い掛け、それ以外の巡洋艦と駆逐艦は香取と舞風を攻撃するよう下令した。米艦隊は沈みかけた香取から魚雷、14cm砲、高角砲による反撃があったと報告している。しかし満身創痍の香取になすすべはなく、転覆して沈没した。トラック諸島の北西75kmの地点であった。また舞風も米艦隊の集中砲火により大爆発を起こして沈没し、生存者はいなかった(磯久駆逐隊司令も戦死)。沈没する香取から3隻の救命艇が脱出したが、アメリカ軍機の銃撃で全没したとアメリカ軍は記録している。このため舞風および香取と同艦に救助された赤城丸の生存者は1人もいなかった。第4215船団部隊では野分だけが米戦艦ニュージャージー及びアイオワの40.6cm砲による砲撃を回避して脱出に成功している。野分は先行した2隻(山雲、浅香丸)とサイパン島で合同し、横須賀にむかった。 午後になり、戦艦部隊はトラック島西方沖で小型艦を発見した。この小型艦は第24号駆潜艇で、駆逐艦バーンズ(英語版)(USS Burns, DD-588)が攻撃のため分離。迎撃する第24号駆潜艇と戦闘の末、16時55分に撃沈した。 フォレスト・シャーマン少将はこの戦艦部隊の行動は空母艦載機による攻撃をややこしくしただけだったと評した。 第27駆逐隊の駆逐艦時雨と春雨も、午前4時30分の空襲警報により急速出港、トラック環礁からの脱出を開始した。空襲で時雨が爆弾1発や至近弾多数を受けたが、第50.9任務群の攻撃は受けずに離脱に成功した。香取船団より約1時間遅く環礁を出発したが、ちょうどスプルーアンス部隊が香取や舞風に気を取られていたので捕捉されなかったという。 また、トラック島に北方から近づいていた第3206船団部隊(藤波、暁天丸、辰羽丸、隆興丸、瑞海丸、新京丸)も、潜水艦と空襲により大打撃を受けた。まず17日未明に米潜水艦の雷撃で暁天丸が沈没した。同日午後2時以降、米軍機動部隊艦載機の攻撃で辰羽丸と瑞海丸が沈没した。生存者の一部は新京丸に救助され、サイパン島に向かった。また駆逐艦藤波は歩兵第150聯隊長以下約1800名を救助、2月18日午後3時頃トラック泊地に到着した。陸軍兵は重機材を全て失っており、丸腰での上陸になった。第3206船団には第52師団の第二次輸送部隊(歩兵第69連隊・歩兵第150連隊など9000名余)が乗船しており、陸軍兵員7000名が死亡したという。『戦史叢書』各巻では、戦死者を約700名とする。
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