民主カンプチアの指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:38 UTC 版)
「ポル・ポト」の記事における「民主カンプチアの指導者として」の解説
「民主カンプチア」および「カンボジア大虐殺」も参照 1973年、パリ協定によってアメリカ軍がベトナムから撤退した。それと同時に南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは政府軍との戦いを続けた。 1975年4月17日、クメール・ルージュは首都プノンペンを占領した。ロン・ノル政権は崩壊し、国号が民主カンプチアに改名される。またポル・ポトもこの間に自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改め、暗号名は「ブラザー・ナンバー・ワン」となった。この時代のクメール・ルージュはオンカー(クメール語: អង្គការ、「組織」の意)を名乗った。 1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。民主カンプチアの国家体制はポル・ポトが原始共産主義のモデルと考えたカンボジアの山岳先住民族の自給自足の生活を理想とする極端な重農主義・農本主義であり、中華人民共和国の毛沢東思想の影響も受けていた。 その実現のために、学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させ、中華人民共和国の人民服のように人々に黒い農民服(英語版)を着用させた。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、オンカーは全く配慮をしなかった。これは世界で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる。 民主カンプチアの国民の多くは自動車どころか移動手段を所有することも禁じられて徒歩を強いられていたにも関わらず、ポル・ポトらは黒い農民服を身にまといつつメルセデス・ベンツを公用車に使用していた。原始社会に戻すために文明の利器を殆ど一掃したため、手作業で運河やダムなどの灌漑施設や、総延長1万5000キロもの巨大な水路が建設された。 更に生産された米の多くは中華人民共和国からの武器調達のための原資として飢餓輸出に回されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやオンカー内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺の大きな要因の一つとなっていった。 ポル・ポトや強制収容所の所長だったカン・ケク・イウらオンカーの幹部の多くは高学歴でインテリ出身だったが、高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕ソン・センは眼鏡をかけていたにも関わらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる。 伝統的な家族の形態を解体する一方でオンカーの許可がない自由恋愛や結婚も禁止され、ポル・ポトは親から引き離して集団生活をさせられ、幼いうちからオンカーへの奉仕を強いられた10代前半の無知で無垢な子供を重用するようになったため、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた。 ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。フランソワ・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、アムネスティ・インターナショナルは140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。フィンランド政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。
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