民主カンプチア崩壊後の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:13 UTC 版)
「カンプチア王国民族連合政府」の記事における「民主カンプチア崩壊後の出来事」の解説
詳細は「en:Coalition Government of Democratic Kampuchea」を参照 1978年のベトナムによる侵略やクメール・ルージュの敗北、その後のカンプチア人民共和国設立の後に、シハヌークはクメール・ルージュ指導部によって、国連で民主カンプチアの状況を説明する様に求められた。シハヌークはクメール・ルージュが大量虐殺者として国連から追放される様に要求する為に、クメール・ルージュとの関係を断った。クメール・ルージュは新しい全面的な組織を作ろうとした。それはつまり、カンプチア愛国民主大民族連合戦線(英語版)を設立する事であったが、評判が地に落ちた「民主カンプチア」体制を再正統化する事は、当初は殆ど成功しなかった。 しかしながら、1982年6月までに、シハヌークとフンシンペックは、クメール・ルージュと結成した民主カンプチア連合政府に再加入していた。その政府は、中国やアメリカとASEANの支援で国際連合の議席を有していた。第三の連立相手はソン・サンのクメール人民民族解放戦線(英語版)であった。
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