民主カンプチア政権
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「ヘン・サムリン」の記事における「民主カンプチア政権」の解説
1975年4月17日にプノンペンが陥落してロン・ノル政権が崩壊した後、5月に東部地域軍は引き揚げたが、サムリンの所属する第1師団は首都に留まった。サムリンは3ヶ月間、ソン・センの下で軍事問題を学び、「軍の編成および軍の強化」をレクチャーされた。しかし、7月の会議で第1師団は中央直轄の第170師団に再編され、サムリンは部隊を置いて一人で東部に帰還させられた。 1976年、東部地域軍第4師団長および政治委員に就任。ナヤン・チャンダによれば、1977年9月のベトナム国境襲撃事件(タイニンの虐殺)を機に、「国道7号戦線」委員長に昇進したとされる。しかし、1977年12月のベトナム軍による東部地域攻撃を防げず、中央の信頼を失うこととなった。 1978年5月18日、サムリンはソー・ピム東部地域書記によりスオンの事務所に召還された。ここで第4師団長を解任され、あらためて地域軍参謀次長に任命され、プレイベンの地域軍司令部に派遣された。同5月、東部地域軍の師団長及び連隊長の多くがケ・ポク中部地域書記により召喚・逮捕されており、サムリンは難を逃れることになった。しかし、彼がプレイベンに到着した5月23日、弟のヘン・タル (Heng Thal) 第290師団長と義兄弟のソス (Soth) 第21地区書記は逮捕され、S-21に送られた。 5月24日、中央直属軍による東部地域制圧作戦が開始され、ソー・ピムが自殺に追い込まれると、ヘン・サムリンは1000人の忠実な部下を引き連れてジャングルに潜伏した。ゲリラ戦で抵抗したものの、間もなくベトナムに逃亡した。
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民主カンプチア政権
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「キュー・サムファン」の記事における「民主カンプチア政権」の解説
1975年4月17日にクメール・ルージュがプノンペン制圧すると、その3日後の4月20日朝、ポル・ポトに同行してプノンペン入りした。同年、党中央委員会事務局「第870号」において、統一戦線問題および経済・商業・産業・関税担当の特別顧問に任命され、慎重を要するとポル・ポトが判断した仕事も担当することになった。1976年1月に新憲法が採択され「民主カンプチア」が樹立され、同年4月にシハヌークが国家元首を「辞任」すると、人民代表議会第1期第1回全体会議により元首職にあたる国家幹部会議長に選出された。 1976年1月の党大会までには党中央委員に昇格。1977年初頭には、党中央委員会事務局の責任者に就任し、党中央委員会常任委員会の決定を執行する立場となった。この2つの地位により、カンボジア国内の虐殺・粛清を知りうる立場にあったと見られる。 1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、同軍が首都プノンペンに迫るなか、1979年1月6日に空港でシハヌークを見送った後、1月7日の夜明けにポル・ポト、ヌオン・チア、少数の護衛とともに数台の車に乗り、西部の町バタンバンに向けて逃走した。
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民主カンプチア政権
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「ペン・トゥオク」の記事における「民主カンプチア政権」の解説
1975年8月、王国民族連合政府の交通・産業担当副首相に任命され、経済関係の統括責任者となる。同年9月の時点では、党中央委員会常務委員の地位にあった。同年10月、党常務委員会において事実上の「閣僚」ポストの配分が行われると、トゥオクは産業・鉄道・漁業担当となった。 1976年1月に民主カンプチア憲法が発布された後、4月14日にポル・ポト内閣の経済担当副首相に任命された。その下には農業工業商業などの6委員会の委員長(閣僚級)が配置され、経済関係全体を統括する超閣僚の役割が与えられた。1977年9月から10月には、ポル・ポトを団長とする党・政府代表団の一員として、中国と北朝鮮を訪問している。 1978年11月1日から2日の党大会においては党中央委員会常務委員に再選出され、「経済および計画」を担当し、序列第5位とされた。
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民主カンプチア政権
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「コイ・トゥオン」の記事における「民主カンプチア政権」の解説
プノンペン制圧直後、トゥオンの北部地域軍は率先して都市住民を農村に追放し、またソ連大使館を強制的に排除した。また、ポル・ポトらによる貨幣制度の廃止と物々交換を支持し、1975年9月の会議で物々交換制度の立ち上げを委託された。同年10月、党常務委員会において事実上の「閣僚」ポストの配分が行われると、トゥオンは内外貿易担当となった。 しかし、1976年初めには北部地域書記を解任された。同年2月25日、シエムリアプで蜂起が起こると、第106区書記ソトがトゥオンの長年の同僚であったことから疑われた。さらに3月末には、女性を巡る不祥事をフー・ニムが報告している 1976年4月8日、トゥオンは拘束されK-1司令部に軟禁されたが、この時はまだ丁重に扱われていた。4月14日、ポル・ポト内閣の商業委員会委員長(閣僚級)に指名されたが就任しなかった。後任の委員長にはスア・バ・シ(ドゥーン)が就任したが、しかし彼もまた関与を疑われる。
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民主カンプチア政権
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1975年4月のプノンペン陥落後、表向きはシハヌークの王国民族連合政府が統治したが、1976年4月の新政府人事で共産党が全権力を占めることになった。党中央はその前の月にソー・ピムを人民代表会議第一副議長とすることを決定していたが、タ・モクに代えられた。おそらく、チャン・チャクレイの「クーデター未遂」と彼の東部地域との繋がりがその理由と思われる。チャクレイは元東部地域軍第1師団長であったが、1975年10月の時点で党中央に警戒され、まもなく軍参謀次長に異動させられ、76年5月に逮捕されている。ピムは最終的に、キュー・サムファンを議長(国家元首)とする国家幹部会の第一副議長に選出された。 チャクレイは4カ月の尋問・拷問の末、「共謀者」の名前を自白した上で処刑されたが、その中には長年にわたりピムの腹心の部下であった東部地域第24地区書記のスアス・ネウ(別名、チューク)の名があった。このときソー・ピムはすでに背信者の疑いをかけられていた。ピムは病気療養のために5月初めから中国を訪問していたが、彼が帰国するまで引き延ばされたうえで、8月にチュークは逮捕された。チュークは拷問の末にソー・ピムや他の党高級幹部を裏切り者として名指しし、処刑された。 このようにしてソー・ピムの信用が大きく低下する中、中央から逮捕者の尋問から裏切り者として名を挙げられた東部地域幹部の名簿が送られてきた。ピムは問題ないと判断して彼らを逮捕することはなかったが、この名簿は最後通達の踏絵だったかもと評されている。 ポル・ポトは1977年初からソー・ピムの囲い込みを始める。まず東部地域南部を通る国道1号の沿線地区に「国道1号戦線」を設置し、ソン・センの直接指揮下に置いた。また地域北部を通る国道7号沿線には「前線委員会」が設置され、委員長にソー・ピム、副委員長にケ・ポク中部地域書記が任命された。こうして東部地域軍を押さえ込みながら、ベトナムに対する戦争体制を整えた。 1977年9月、カンボジア軍はベトナムのタイニン省に越境攻撃を仕掛け、無抵抗の市民約1000人を虐殺する事件を起こしている。しかし、同年12月にはベトナム軍が大反撃作戦を実施し、カンボジア領内40キロまで侵攻した。東部地域では散発的な抵抗が行われたがベトナム軍に圧倒され、東部地域軍は敗走した。1978年1月、ベトナム軍は早々に撤退したが、党指導部はこれを「偉大な歴史的勝利」と宣伝し、その一方でベトナム軍の侵攻を許したのは東部地域の行政府に裏切り者が多くいたためと考え、粛清を強化した。ポル・ポトは3月の段階で、問題の根はソー・ピム本人にあると断じていた。
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