プノンペン陥落後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:13 UTC 版)
「カンプチア王国民族連合政府」の記事における「プノンペン陥落後」の解説
1975年4月のクメール・ルージュのプノンペン侵攻までには、共産主義者は強固にカンプチア王国民族連合政府を操っていた。そしてカンボジアとの接触は効果的に遮断された。シハヌークはプノンペン陥落さえ、直接には伝えられなかった。彼は直ちに厳しい不安を抱えながら北朝鮮の平壌に向かったが、信頼関係にあった周恩来によって、カンボジアの国家元首として帰国する様に説得された。 シハヌークはプノンペンで儀礼的な歓迎を受けたが、町を観察して深くショックを受けた。彼の「擁護者」周恩来が1976年1月に死去した事は、シハヌークの立場を更に弱くし、周恩来に対抗して康生が支援していたポル・ポトが中国と北朝鮮の後ろ盾を得ることになる。外国のラジオを通じてクメール・ルージュの人権侵害を知った後、彼は1976年4月に帰国した。彼自身の記述によると、クメール・ルージュ指導部は、直ちにサリを派遣して、シハヌークに留まるように説得しようと試みたが、シハヌークが辞任すると言って譲歩しないので、彼を効果的な自宅軟禁にした。キュー・サムファンが元首になったが、彼も同様に追放された。「民主カンプチア」の議会下院最初の会合は、1976年4月11日から13日まで行われた。ここで事前には殆ど知られていなかった「ゴム農場の労働者」ポル・ポトを、首相に指名する事が確認された。ポル・ポトは、後に、元ジャーナリストでクメール・ルージュの強硬派幹部サロット・サルと同一人物であると暴露された。 シハヌークの従兄弟で、1976年に再教育センターで拷問され、殺害されたと思われる左派のノロドム・プリサラ(英語版)殿下やカンプチア王国民族連合政府で法務大臣を務めてトゥール・スレンで殺害されたシェ・サン(英語版)の様に、彼はカンプチア王国民族連合政府での生き残っているシハヌーク派の殆どは直後に処刑された。ペン・ヌートだけがこういう結末を逃れられた。カンプチア王国民族連合政府の一員だったクメール・ルージュの主要なメンバーだったフー・ユンは、1975年までには行方不明となり、1976年までには殆ど死亡していると考えられた。共産主義の知識人フー・ニムとチャウ・センは1977年にトゥール・スレンで「粛清」され、処刑された。キュー・サムファンは、恐らく彼の役割が主に記号的に過ぎなかったが、ポル・ポトに対する揺るぎない忠義を持っているという評判によって保護され、クメール・ルージュの元首を続けていた。
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