クメール・ルージュの支配
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「カンボジア内戦」の記事における「クメール・ルージュの支配」の解説
詳細は「民主カンプチア」を参照 1972年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ、この内戦に直接介入した。これによってベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは10月に軍事独裁体制を宣言し、翌1972年3月に大統領に独裁的権力をもたせた新憲法を公布した。 中華人民共和国からの密接な支援を受けたクメール・ルージュは戦闘を続ける。1973年1月にパリでベトナム和平協定が調印されアメリカ軍がベトナムから撤退すると、後見を失ったロン・ノル政権は崩壊に向かう(カンポットの戦い(英語版)1974年2月26日 - 4月2日)。 1975年4月、ロン・ノルは国外へ亡命、隣国ベトナムでは南ベトナムのサイゴンが陥落し、北ベトナムが勝利をおさめてベトナム戦争が終結した。この13日前、クメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させ、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンプチアに改称した。 内戦中、アメリカ軍の農村部への爆撃により農村人口は難民として都市に流入し、プノンペンの人口は200万以上に増加していた。農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万 - 25万トンの米が必要である」と報告し、国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。 プノンペン陥落後、クメール・ルージュの指導者であるポル・ポトは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは全く配慮をしなかった。ポル・ポトの目的は原始社会(原始共産制)の理想的な自給自足の生活を営んでいると自ら考えたカンボジアの山岳民族を範として資本主義はおろか都市文明を徹底的に廃絶することであった。これは世界で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる。高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、別の場所へ連れ去った後に殺害した。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れ渡るようになると、教育を受けた者は事情を察し、無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害された。この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる。また、ポル・ポトは「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で親から引き離して集団生活をさせて幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた10代前半の無垢な子供を重用するようになり、少年兵を操り、子供の衛生兵も存在した。 ポル・ポト時代の飢餓と虐殺による死者は総人口の21%から25%とされ、そのうち60%は大量殺戮によるものでカンボジアは人口の3分の1を失ったともされるが、カンボジアでは1962年を最後に国勢調査は行われておらず、そのうえポル・ポト以前の内戦・空爆による犠牲や人口の難民化により、元となる人口統計が不備であり、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。 クメール・ルージュ下の残虐行為に関する最も初期の記述のうちの1つは、イス・サリンによって1973年に書かれた。彼はクメール・ルージュの幹部メンバーであったが、ポル・ポトおよび民主カンプチアに幻滅を感じて党を去り、9か月後に密かにプノンペンに戻った。彼の著書『クメールの魂に対する後悔』(Sranaoh Pralung Khmer) は、クメール・ルージュが存在を秘密にした上部機構、中央委員会(Angkar Loeuあるいは単にAngkar)を明らかにした。中央委員会はKena Mocchhim (Committee Machine) と呼ばれた。
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