クメール王朝とは? わかりやすく解説

クメール王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/03 00:23 UTC 版)

クメール帝国
កម្វុជទេឝ
ख्मेर साम्राज्य
802年 - 1431年

(国旗)

900年頃のクメール王朝の版図(赤)
公用語 クメール語サンスクリット
首都 ハリハラーラヤ英語版(802-889) 
ヤショーダラプラ英語版(889-928)
チョック・ガルギャー(928-944)
ヤショーダラプラ英語版(944-1190)
アンコール・トム(1190-1431)
国王
802年 - 835年 ジャヤーヴァルマン2世英語版
889年 - 910年 ヤショーヴァルマン1世
1010年 - 1050年 スーリヤヴァルマン1世
1113年 - 1150年 スーリヤヴァルマン2世
1181年 - 1218年 ジャヤーヴァルマン7世
変遷
ジャヤーヴァルマン2世、シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国からの独立、神聖カンボジア王を自ら名乗る。 802年
第一次ヤショーダラプラ陥落 1352年1357年
第二次ヤショーダラプラ陥落 1398年
アユタヤ王朝、ヤショーダラプラ占領 1431年

クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。

歴史

802年頃、ジャヤーヴァルマン2世英語版王がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クーレン丘陵で即位した[1]。これがクメール王朝の始まりである。王都はハリハラーラヤ英語版

889年ヤショーヴァルマン1世ヤショーダラプラ英語版に遷都。

928年から944年の期間、ジャヤーヴァルマン4世英語版の時代に一時チョック・ガルギャーに遷都していた。

950年頃、スーリヤヴァルマン1世王がラヴォー王国を占領した。1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国がラヴォー王国に援軍を送り、ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとクメール王朝と何度も争ったが、マレー半島のナコーンシータンマラートのクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退した。1023年にもクメール軍はハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。

1113年スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国や、東隣と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部におよんだ。彼は寺院建築に熱心で、アンコール遺跡アンコール・ワットトマノンバンテアイ・サムレ、およびピマーイ遺跡などのヒンドゥー教寺院を建築した。

1177年、チャンパ王国の大軍が王都ヤショーダラプラを破壊した。1181年にはジャヤーヴァルマン7世がチャンパ王国に徹底抗戦して王都ヤショーダラプラを奪還し、王として即位。1190年にはチャンパ王国を降伏させた。12世紀から13世紀にかけて、クメール王朝はヴィジャヤ王朝英語版ともしばしば戦争を行った。一時はヴィジャヤ王朝を占領したこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ人兵士の浮彫が残されていることが知られている。12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部ラオス、およびベトナムのそれぞれの一部をも領有していた。ジャヤーヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立した。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となった。

ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。1283年クビライモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教インドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世英語版が8世を殺害し、王位に就いた。

1351年アユタヤ王朝が近隣のタイで建国された。1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グム英語版を支援し、ラーンサーン王国が建国された。1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服された。

14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落した。

脚注

  1. ^ 1052年銘のスドク・カク・トム (Sdok Kak Thom) 碑文にはジャワから戻り都インドラプラにおいて即位したとある。

関連項目


クメール王朝

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カンボジア君主・国家元首一覧」の記事における「クメール王朝」の解説

(以下は不明なものを含んでます。修正要します。) ジャヤーヴァルマン2世(チェイヴァルマン2世802年 - 835年ジャヤーヴァルマン3世(チェイヴァルマン3世835年 - 877年インドラヴァルマン1世877年 - 889年ヤショーヴァルマン1世(ヨーサオヴァルマン1世889年 - 910年) ハルシャーヴァルマン1世910年 - 923年) イシャーナヴァルマン2世923年 - 928年ジャヤーヴァルマン4世(チェイヴァルマン4世928年 - 941年) ハルシャーヴァルマン2世941年 - 944年) ラージェンドラヴァルマン2世944年 - 968年ジャヤーヴァルマン5世(チェイヴァルマン5世969年 - 1001年) ウダヤーディチャヴァルマン1世1001年 - 1002年) ジャヤヴィラヴァルマン(1002年 - 1010年スーリヤヴァルマン1世1010年 - 1050年) ウダヤーディチャヴァルマン2世1050年 - 1066年) ハルシャーヴァルマン3世1066年 - 1080年ジャヤーヴァルマン6世(チェイヴァルマン6世、1080年 - 1107年) ダーラニンドラヴァルマン1世1107年 - 1113年スーリヤヴァルマン2世1113年 - 1150年頃) ダーラニンドラヴァルマン2世1150年頃 - 1160年統治痕跡がないという説あり) ヤショーヴァルマン2世(ヨーサオヴァルマン2世1160年 - 1166年) トリブヴァナーディティアヴァルマン(王位簒奪者、1165年頃 - 1177年ジャヤーヴァルマン7世(チェイヴァルマン7世、1181年 - 1218年頃) インドラヴァルマン2世1218年頃 - 1243年ジャヤーヴァルマン8世(チェイヴァルマン8世1243年 - 1295年インドラヴァルマン3世(シュリンドラヴァルマン、1295年 - 1308年) インドラジャヤーヴァルマン(1308年 - 1327年) ジャヤーヴァルマディパラメーシュヴァラ(1327年 - 1336年)(ヴァルマン称号廃止) トロソク・ピヤム(1336年 - 1340年) ニッピヤン・バット(涅槃王、1340年 - 1346年) ロムポン・リヤチヤ(1346年 - 1351年) スレイ・ソリヨヴォン(1357年 - 1363年) バロム・リヤミヤ(1363年 - 1373年) トマー・サオク(1373年 - 1393年) ポニャー・ヤット(英語版)(1405年 - 1434年)(アンコール放棄

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