真臘とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 言葉 > 表現 > > 真臘の意味・解説 

しんろう〔シンラフ〕【真臘】


真臘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 09:41 UTC 版)

真臘
クメール語: ចេនឡា
550年 - 802年

真臘の位置
公用語 古クメール語
首都 バーヴァプラ、イーシャーナプラ
シュレシュタプラ
国王
? - 681 ジャヤーヴァルマン1世フランス語版
変遷
扶南国の属国 550年
独立610年
扶南国吸収628年
南北分裂713年
クメール王国成立802年

真臘クメール語: ចេនឡា、チャンラ /日本語読み: しんろう)は、クメール人王国中国では真臘ベトナムではChân Lạpとして知られている。

歴史

古い中国の記録は現在のラオス南部からカンボジア東部に位置した真臘(王都はシュレシュタプラ、Shreshthapura)を統治した初代王シュルタヴァルマン(Shrutavarman、435年-495年)と二代王シュレシュタヴァルマン(Shreshthavarman、495年-530年)の2人の王に言及している。550年頃は扶南国従属国であり、その60年ほど後に独立を成し遂げ、最終的には扶南国を占領、人々と文化を吸収していった。このときの扶南国の弱体化はローマ帝国とその後の地中海と中国の間の通商路の崩壊から説明できる。

カンボジアの文化に大きな影響を与えたものは、現在のコンポントム英語版にあたるバーヴァプラ(Bhavapura)を首都とする扶南国で形作られた。遺産は、最も重要な支配者イーシャーナヴァルマン1世フランス語版(Ishanavarman I)による612年から628年にかけての扶南国の占領完了である。613年、彼はこの新しい国の最初の首都を現在のサンボー・プレイ・クックにあたるイーシャーナプラにした。

681年ジャヤーヴァルマン1世フランス語版(Jayavarman I)の死後、王国には混乱が起こり、8世紀の初め頃、王国は多くの小王国に崩壊していった。真臘(Shambhupura)の統治者であったプーシュカラクシャフランス語版(Pushkaraksha)は彼自身がカンボジャスの王であることを宣言した。

706年頃に真臘は、「陸の真臘」(陸真臘中国語版)として知られる北部と、「水の真臘」(水真臘中国語版)として知られる南部に分離した。現在ラオスチャンパーサック県とされる場所が北部の中心となり、メコンデルタと海岸地域は南部の一部になった。中国の年代書には8世紀に真臘が陸真臘と水真臘に分離した(706年 - 802年)としている。この時期プーシュカラクシャの息子シャンブヴァルマン(Shambhuvarman)は8世紀の間、マレーシア人とジャワ人が支配した多くのクメール小王国である水真臘の大部分を支配し、陸真臘はシャンブヴァルマンの兄弟ラージェンドラヴァルマン1世フランス語版(Rajendravarman I)が支配した。

774年頃からジャワ王国のシャイレーンドラ朝の侵略が始まり[1]802年頃までその支配下に入っていた。この事件は10世紀の、アッバース朝とインド・中国・東南アジアとの交易の実体を記したアラビア語文献『中国とインドの諸情報-第二の書』にザーバジュのマハーラージュの王国がクマール国を襲撃した事件として記載されている[2]。ザーバジュはシャイレーンドラ、マハーラージュはインド古来の大王の称号マハーラージャ、クマールはクメール国であり、シャイレーンドラがクメール王を殺害してしばらくの間クメール国を属国とした事件を記したものと考えられている。

歴代君主

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ チャンパーのポ・ナガル(Po-Nagar)碑文によれば784年、ヤン・ティクー(Pang TiKuh)碑文によれば787年にジャワの黒い肌の賊軍が来襲したとの記載がある。更に大越史記全書外紀巻五には767年の事件として安南都護府(現ハノイ)を崑崙闍婆の襲撃事件が記されている(崑崙はマレー系の人々、ジャワはジャワ、即ちシャイレーンドラ、若しくは占城(チャンパー(当時の南ベトナム)だと考えられている。チャンパー、ジャワのいずれであってもマレー系の人々だと考えられる))
  2. ^ 家島彦一訳『中国とインドの諸情報-第二の書』pp48-54

外部リンク



真臘(クメール)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:55 UTC 版)

タイの歴史」の記事における「真臘(クメール)」の解説

詳細は「真臘」および「クメール王朝」を参照 クメール族の真臘は、同じくクメール族扶南国属国であったが、5世紀中頃にはシーテープ(フランス語版)などを支配下に置き、7世紀初頭、王マヘンドラヴァルマン(英語版)(チトラセナ)もしくは次のイシャーナヴァルマン1世英語版)の時代扶南占領した706年頃、陸真臘と真臘に分裂した中国史料にあり、陸真臘はサンブヴァルマン (Shambhuvarman) が建国し、沿海部はラージェンドラヴァルマン1世フランス語版)が支配したともいわれる8世紀中頃から真臘はジャワシャイレーンドラ朝侵攻されていたが、9世紀初頭クメール王朝として独立したクメール王朝その後タイ東北部イーサーン)よりタイ中部マレー半島北部へと支配拡大していった。

※この「真臘(クメール)」の解説は、「タイの歴史」の解説の一部です。
「真臘(クメール)」を含む「タイの歴史」の記事については、「タイの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「真臘」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



真臘と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真臘」の関連用語

真臘のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真臘のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの真臘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのタイの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS