チャンパの旧扶南領吸収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)
「チャンパ王国」の記事における「チャンパの旧扶南領吸収」の解説
ミーソン梵碑ャンパ碑文(美山梵C.96)に見えるカウンディニャが扶南の建国者・混填と同一人物であるなら、カウンディニャ=混填の子孫を自称する再興林邑と真臘は、いずれも扶南の後継者を自認し、協力して扶南の旧領を分割・継承したと考えられる。林邑の本来の領土は漢の日南郡とその境外であり、南ベトナムの北端にすぎず、南ベトナムのほとんどは扶南であった。扶南の衰退後、メコンデルタを除く南ベトナムの扶南領は、ことごとく林邑領(チャンパ領)となり、そのほかの扶南領は真臘領(メコンデルタ、カンボジア、南ラオス、東北タイ)となった。『宋史』はチャンパ王国の領域を北から順に烏里州(ウリク)、施備州(シュリーヴィジャヤ)、奔陀浪州(パーンドゥランガ)と呼び、またチャミック話者のほかオーストロアジア語話者(カトゥイック、バフナリック話者)が多く住む中部高原を上源州と呼んだ。チャンパ王家には北方の椰子族 Li-u/Narikelaと南方の檳榔族 Panang/Kramuka があり、この檳榔族は跋南(扶南)の遺民を指すと考えられる。
※この「チャンパの旧扶南領吸収」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「チャンパの旧扶南領吸収」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。
- チャンパの旧扶南領吸収のページへのリンク