チャンパのヒンドゥー化
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「チャンパ王国」の記事における「チャンパのヒンドゥー化」の解説
チャンパ・ウリク地方(Ulik)の本格的なヒンドゥー化は、605年以降に確認される。この年、隋の林邑遠征軍は林邑の都を占領したものの、林邑王范梵志は逃亡したためにとらえらえず、隋軍は司令官劉方をはじめ兵の半数を失って壊滅し、撤退した。その後、ウリク地方-いまのトゥアティエン・フエ省[承天-化省]、ダナン市[沱瀼城庯]、クアンナム省[広南省]地域を中心として再興された林邑において、はじめて、チャンパープラ Campapura、チャンパーナガラ Campanagara などの梵語国号を記した碑文(梵碑/サンスクリット碑文、占碑/古チャム語碑文)が現れる。これは、林邑王范梵志が605年の亡命の際に、よりヒンドゥー化の進んだ地域に滞在し、その文化と技術を持ち帰ったことを暗示する。チャム語は7世紀以降の膨大な語彙記録を持つ。一部の古チャム語碑文には古マレー語的な要素もみられる(dariなどの用法)。
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