チャンパとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)
チャンパ王国は、大越の南に位置する国家である。ヒンドゥー教などインド文化を取り入れ、中国文化の影響を強く受けた文化と法制を有する北の大越とは全く異なる文化圏にあった。李常傑は、チャンパとの戦争(中国語版)においてまず軍事的才能を開花させた。 天貺宝象2年(1069年)聖宗はチャンパへの親征に赴いた。大将軍・李常傑のもと大越軍は優位に戦を展開し、チャンパ軍は徐々に後退する。チャンパ王のルドラヴァルマン3世は兵とともに敗走した。5月に至り、「元帥阮常傑(李常傑)は真臘(現在のカンボジア)の境まで追い詰め、王を捕虜とした」。 ルドラヴァルマン3世を捕虜とした李常傑はチャンパ王に謝罪させるとともに、それまでチャンパ領だったデリー(ベトナム語版)、メリー(ベトナム語版)、ポー・トリン(ベトナム語版)の3州を割譲させ、新たに大越の領土に組み込んだうえでルドラヴァルマン3世を解放した。 大戦果を挙げ凱旋した李常傑は軍功により輔国太尉、内侍判首都押衙、行殿内外都知事、遥授諸鎮節度、同中書門下上柱国、遥授南平節度使、輔国上将軍、開国公など数々の位を賜り、ついには「天子義弟」、つまり帝の義弟として皇族に列する栄誉を授けられ、朝廷において絶大なる影響力を持つことになる。時に齢51のときである。 一連の戦の後、チャンパでは内乱が発生した。太寧3年(1074年)、かつて李常傑の捕虜となったルドラヴァルマン3世が大越に亡命した。フランスの学者のジョルジュ・マスペロ(英語版)によれば大越はルドラヴァルマン3世を助け、国に返して復位させるとともに、翌太寧4年(1075年)に李常傑が兵を率いて南に向かい、チャンパの新王のハリヴァルマン4世(中国語版)を撃退した。
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