チャンパ王国
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チャンパ王国(チャンパおうこく、ベトナム語:Champa, Chiêm Thành / 占婆, 占城、192年 - 1832年)は、南ベトナムにあったオーストロネシア語(チャミック Chamic)およびオーストロアジア語(バフナリック Bahnaric、カトゥイック Katuic)話者たちの国。チャンパはもともと中国・漢帝国の南端(日南郡象林県、のちのウリク地方 Ulik)であったが、192年ごろ現地官吏の子の区連により独立した。中国では唐代まで林邑と、また短期間環王国と呼び、宋代以降は占城と呼んだ。[要出典]独立以来、中国歴代王朝と国境を接し、あるときは朝貢し、あるときは抗争し、605年に隋によっていちど滅ぼされた。ミーソン梵碑(美山梵碑, Bia Phạn Mỹ Sơn)C.96によれば、ベトナムの林邑とカンボジアの真臘はヒンドゥー叙事詩『マハーバーラタ』に現れるカウラヴァ方のバラモンの武将アシュヴァッターマンの子孫であり、亡命先から帰還した范梵志により林邑が再興された後、チャンパではヒンドゥー化が進んだ。10世紀にゴー・クエン(呉権 Ngô Quyền)により北ベトナムが中国から独立すると、呉権の死後、その息子のゴー・ニャット・カイン(呉日慶 Ngô Nhật Khánh)が後継者争いに敗れて[要出典]チャンパに亡命した。以降、北ベトナム(大越)の王権は呉権の後継者たち(黎氏、丁氏、李氏、陳氏)が継承し、南ベトナム(チャンパ)の王権は呉権の子孫たち(呉日慶、呉日歓 Ngô Nhật Hoan)[要出典]、ヴィジャヤ王朝、パーンドゥランガ王朝が継承した。チャンパは西方世界と中国を結ぶ貿易で繁栄し、宗教的にはヒンドゥーおよびイスラームを受容した。
- 1 チャンパ王国とは
- 2 チャンパ王国の概要
チャンパ王国
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建国初期の陳朝はチャンパに対して李朝と同様に敵対関係にあり、1252年に太宗が首都ヴィジャヤ(英語版)(現在のクアンガイ省、ビンディン省)に親征を行い、チャンパ王ジャヤ・パラメーシュヴァラヴァルマン2世(英語版)と王室を捕らえ、クアンチ、クアンビン北部を支配下に収めた。元の侵入に際して陳朝とチャンパは協力関係にあり、1301年に仁宗の交渉によって皇女・玄珍公主とチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン3世の婚姻が成立した。ジャヤ・シンハヴァルマン3世の没後にチャンパ内の内紛によって両国の関係は悪化し、英宗の親征によってチャンパ王ジャヤ・シンハヴァルマン4世を捕らえ、新たにその弟であるジャヤ・シンハヴァルマン5世を擁立した。ビナスオールのチャンパ王即位後に両国の力関係は逆転し、1390年に制蓬峩が紅河デルタ遠征を行った際には乂安、順州、化州の住民の多くがチャンパに従った。「火銃」という火器によってビナスオールを破ると大越は反撃に転じ、チャンパに占領された土地を回復した。
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