ヒンドゥー化とウリク王朝の勃興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)
「チャンパ王国」の記事における「ヒンドゥー化とウリク王朝の勃興」の解説
4世紀から6世紀にかけて、南ベトナム・カンボジアにあった林邑・扶南などの諸国は、インド・グプタ朝時代に文化的・技術的に高度に発展した、いわゆるヒンドゥー文明を徐々に受容して、7世以降にチャンパ(南ベトナム)、カーンボージャ(カンボジア)、ドヴァーラヴァティー(タイ西部)へと発展した。その文字は「夷字」「崑崙書」(梵語ーサンスクリット表記に使用されるパッラヴァ系のインド文字)と伝えられる。しかし、隋の侵攻以前(604-605年以前)の南ベトナムでは、梵碑(サンスクリット碑文)のようなヒンドゥー化の証拠となる遺物は、年代と帰属について議論が続くヴォカイン梵碑(武競梵碑, Bia Phạn Võ Cạnh)、ドンイエンチャウ占碑(東安洲占碑 Bia Chăm Đông Yên Châu)を除き、確認されていない。ヒンドゥー文明と並行して中国文明も受容されたと考えられ、フエのミーカインの塔(美慶古塔 Tháp Chăm Mỹ Khánh)のように漢字刻印つきのレンガでできたヒンドゥー遺跡もある。また、中国経由で日本に渡来した林邑僧仏哲が伝えたチャンパの音楽と舞踊(林邑楽)のレパートリーには、中国史(北朝および南朝の故事)を題材にしたものがある。
※この「ヒンドゥー化とウリク王朝の勃興」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「ヒンドゥー化とウリク王朝の勃興」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。
- ヒンドゥー化とウリク王朝の勃興のページへのリンク