建国初期とは? わかりやすく解説

建国初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 02:25 UTC 版)

ルーム・セルジューク朝」の記事における「建国初期」の解説

建国者のスライマーン1世イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジューク玄孫にあたる。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ敗走途上没した敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱い受けられなかった。 1071年マラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝勝利後、ビザンツ帝国軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン遊牧民進出が始まる。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリア進出する意図無くアルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターン即位したマリク・シャーは、スライマーンマンスール兄弟80,000戸のトゥルクマーン与えてアナトリア統治命じた1074年から1075年の間にスライマーンニカイア占領ビザンツ皇帝同盟してアナトリア君主地位をうかがうマンスール勝利する。そして1077年スライマーンセルジューク朝からアナトリア支配権認められ独立宣言するが、大セルジューク朝君主異なりスルターン」の称号は名乗らなかった。ビザンツ協定結んだスライマーンアナトリア南部進攻し、タルススなどの都市獲得した。さらにスライマーン東方進み1084年12月(あるいは1085年)に小アルメニア領のアンティオキア現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンシリアへも進出したために、他のセルジューク朝王族との間に対立生まれる。1086年6月スライマーンシリア・セルジューク朝創始者トゥトゥシュとの戦い敗れ落命した。成人していなかったスライマーンの子クルチ・アルスラーン1世ホラーサーン地方召還されマリク・シャー元に留められた。指導者欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争いセルジューク朝支配領域アルメニアにまで後退したマリク・シャー没後1092年にクルチ・アルスラーンは解放されアナトリア統治命じられニカイア入城する。1096年アナトリア上陸した十字軍第1回十字軍)が、ニカイア包囲する事件起きる(ニカイア包囲戦)。クルチ・アルスラーンはマラティヤ包囲中に十字軍出現知りニカイアに戻るが敗れ、翌1097年首都失ったルーム・セルジュークそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝同盟して十字軍と戦うが、ドリュラエウム(現在のエスキシェヒール)の戦い敗れる(ドリュラエウムの戦い)。1097年8月コンヤヘラクレア現在のエレーリ)、カエサレア現在のカイセリ)が十字軍占領されルーム・セルジューク制圧していたエーゲ海沿岸部地域ビザンツによって奪い返された。トゥルクマーン諸勢力十字軍対抗するために連合し1101年8月ミラノ大司教アンセルモ撃破皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力回復した

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建国初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/08 17:21 UTC 版)

スーフィー朝」の記事における「建国初期」の解説

13世紀前半ホラズム地方モンゴル帝国の支配下に置かれた後にホラズム二分され、北部ジョチ・ウルスキプチャク・ハン国)、南部チャガタイ・ウルスチャガタイ・ハン国)が統治していた。 スーフィー朝ジョチ・ウルスウズベク・ハン女婿である有力者ナングダイを祖とする。1359年にベルディ・ベク・ハンが没した後、スーフィー朝ジョチ家王子ヒズル軍事援助行い、彼をハン位に就けた伝えられている。ナングダイの子一人であり、スーフィー朝実質的な創始者であるフサインコンギラト部の出身であり、ジョチ・ウルス属していた。1360年代ジョチ・ウルス無政府状態陥ると、フサインホラズム北部独立した国家建てたフサインクフナ・ウルゲンチ旧ウルゲンチ)を中心にホラズム北部統治し1364年から彼の名を刻んだ貨幣鋳造した。さらにマー・ワラー・アンナフル支配する西チャガタイ・ハン国混乱乗じてフサインホラズム南部のキャトとヒヴァ占領する。 しかし、チャガタイ・ウルス支配地であるホラズム南部への進出は、ティムール朝との対立の原因となる。スーフィー朝がキャトとヒヴァ占領した当時マー・ワラー・アンナフル有力な支配者不在の状態だったが、1370年ティムールによってマー・ワラー・アンナフル統一回復される1371年ティムールフサインに対して、キャトとヒヴァ返還強く要求したフサイン返還拒否したため、1372年ティムールの軍がホラズム侵入した侵入後間も無くキャトがティムール占領されると、フサインウルゲンチ守り固めて籠城するが、ティムール軍のウルゲンチ包囲中にフサイン急逝した

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建国初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:52 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史」の記事における「建国初期」の解説

1790年首都ニューヨークからフィラデルフィア移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年当時合衆国中央部にあたるメリーランド州バージニア州州境にあるポトマック川流域新首都建設する事を決めた1801年新首都完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

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建国初期 (1789年-1818年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/02 09:46 UTC 版)

コネチカット州の歴史」の記事における「建国初期 (1789年-1818年)」の解説

ニューイングランド連邦党堅い地盤であった。ある歴史家コネチカット連邦党如何に組織されていたかを次のように説明している。 党の中核となる役職者からなる支援団体働きかける方法完成することが必要なだけであった。州の役人がおり、助手がおり、そして議会絶対多数がいた。各郡には保安官とその副官がいた。あらゆる州、郡および町の判事潜在的にまた全体行動的な活動家だった。町ごとに治安判事学校長何人かおり、連邦党の町では全ての町の役人が党の仕事をする準備ができていた。あらゆる教区には「代理人」がおり、その「破門」という言葉少なくとも10人の助祭の票を確保できた。民兵の士官、州の弁護人法律家教授およに学校の先生たちはこの「徴兵軍」の先頭立っていた。全体に約1000人から1100人の個別役職者内部の環を構成し、彼らが選挙結果左右することのできる範囲内では自分組織上の票を集められた。これが連邦党マシーンだった。 連邦党に力があるので、民主共和党が勝つためにはそれ以上努力必要だった1806年、州の指導者次の選挙のための支持を町の指導者に送ったあらゆる町の管理者は州の指導者から「町の各地区に一人地区監督者指名し、その監督者誠実に義務を果たす確認を得ること」と告げられた。続いて、町の監督者は、税金払っている人の数、資格のある投票者の数、何人民主共和党決め何人連邦党決め、また未定であるか、現在は投票資格が無いが次の選挙では(納税年齢で)資格ができる支持者どのくらいいるかなどの報告求められた。これら詳細な報告が郡の監督者届けられた。それが郡全体統計値にまとめられ、州の監督者送られた。新しく集計され投票者データ元に町の監督者は町の集会投票権者を集めるように言われ、また若い者投票権取得する手伝いをするよう告げられた。毎年の町の公式集会では、監督者は「どれだけ民主共和党員がいるかに気をつけ、全作業が終わるまで残って投票見届けること。各地監督者欠席した民主共和党員の名前と、もし知りうるなら欠席理由も町の監督者報告するよう言いつけられた。監督者仕事で最も重要なことは地方選挙候補者指名することであり、党公認候補者名を印刷して配ることであった。州の監督者は党の新聞それぞれの町に配り、町の監督者はそれを地区監督者に配る責任があった。この高度に組織化され投票推進運動現代選挙運動にも通じるものがあるが、世界の歴史中でも初めての類のものであった。 この当時コネチカット繁栄しており、海港多忙最初繊維工場造られていた。米英戦争のあいだ、アメリカ禁輸措置イギリス海上封鎖により、輸出業には大きな打撃となったが、これが国内産業急速な成長促すことになったイーライ・ホイットニーは、コネチカット州機械工具や工業技術分野世界リーダーにした多く技術者発明家一人である。コネチカット州はその連邦党やティモシー・ドワイトのイェール大学によって代表される政治的な保守性知られた。顕著な知識人ドワイトの他に、ニューヘイブン大きな辞書編纂したノア・ウェブスターがいた。宗教的に会衆派教会連邦党結託しており、その力を維持しようとしていたので、州の評価二分させていた。1814年開催されハートフォード会議失敗によって連邦党失墜し1817年には民主共和党に完全に打ち負かされた。

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