建国初期
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「ルーム・セルジューク朝」の記事における「建国初期」の解説
建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった。 1071年のマラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝の勝利後、ビザンツ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリアに進出する意図は無く、アルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターンに即位したマリク・シャーは、スライマーンとマンスールの兄弟に80,000戸のトゥルクマーンを与えてアナトリアの統治を命じた。1074年から1075年の間にスライマーンはニカイアを占領、ビザンツ皇帝と同盟してアナトリアの君主の地位をうかがうマンスールに勝利する。そして1077年にスライマーンはセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ、独立を宣言するが、大セルジューク朝の君主と異なり「スルターン」の称号は名乗らなかった。ビザンツと協定を結んだスライマーンはアナトリア南部に進攻し、タルススなどの都市を獲得した。さらにスライマーンは東方に進み、1084年12月(あるいは1085年)に小アルメニア領のアンティオキア(現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンがシリアへも進出したために、他のセルジューク朝の王族との間に対立が生まれる。1086年6月にスライマーンはシリア・セルジューク朝の創始者トゥトゥシュとの戦いに敗れ、落命した。成人していなかったスライマーンの子クルチ・アルスラーン1世はホラーサーン地方に召還され、マリク・シャーの元に留められた。指導者を欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争い、セルジューク朝の支配領域はアルメニアにまで後退した。 マリク・シャーの没後、1092年にクルチ・アルスラーンは解放されてアナトリアの統治を命じられ、ニカイアに入城する。1096年、アナトリアに上陸した十字軍(第1回十字軍)が、ニカイアを包囲する事件が起きる(ニカイア包囲戦)。クルチ・アルスラーンはマラティヤ包囲中に十字軍の出現を知り、ニカイアに戻るが敗れ、翌1097年に首都を失った。ルーム・セルジュークはそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝と同盟して十字軍と戦うが、ドリュラエウム(現在のエスキシェヒール)の戦いに敗れる(ドリュラエウムの戦い)。1097年8月にコンヤ、ヘラクレア(現在のエレーリ)、カエサレア(現在のカイセリ)が十字軍に占領され、ルーム・セルジュークが制圧していたエーゲ海沿岸部の地域はビザンツによって奪い返された。トゥルクマーン諸勢力は十字軍に対抗するために連合し、1101年8月のミラノ大司教アンセルモの撃破を皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り(1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力を回復した。
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建国初期
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13世紀前半にホラズム地方がモンゴル帝国の支配下に置かれた後にホラズムは二分され、北部はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、南部はチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が統治していた。 スーフィー朝はジョチ・ウルスのウズベク・ハンの女婿である有力者ナングダイを祖とする。1359年にベルディ・ベク・ハンが没した後、スーフィー朝はジョチ家の王子ヒズルに軍事援助を行い、彼をハン位に就けたと伝えられている。ナングダイの子の一人であり、スーフィー朝の実質的な創始者であるフサインはコンギラト部の出身であり、ジョチ・ウルスに属していた。1360年代にジョチ・ウルスが無政府状態に陥ると、フサインはホラズム北部に独立した国家を建てた。フサインはクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を中心にホラズム北部を統治し、1364年から彼の名を刻んだ貨幣を鋳造した。さらにマー・ワラー・アンナフルを支配する西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて、フサインはホラズム南部のキャトとヒヴァを占領する。 しかし、チャガタイ・ウルスの支配地であるホラズム南部への進出は、ティムール朝との対立の原因となる。スーフィー朝がキャトとヒヴァを占領した当時のマー・ワラー・アンナフルは有力な支配者が不在の状態だったが、1370年にティムールによってマー・ワラー・アンナフルの統一が回復される。1371年にティムールはフサインに対して、キャトとヒヴァの返還を強く要求した。 フサインが返還を拒否したため、1372年にティムールの軍がホラズムに侵入した。侵入後間も無くキャトがティムールに占領されると、フサインはウルゲンチの守りを固めて籠城するが、ティムール軍のウルゲンチ包囲中にフサインは急逝した。
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建国初期
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「アメリカ合衆国の歴史」の記事における「建国初期」の解説
1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。
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建国初期 (1789年-1818年)
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「コネチカット州の歴史」の記事における「建国初期 (1789年-1818年)」の解説
ニューイングランドは連邦党の堅い地盤であった。ある歴史家はコネチカットで連邦党が如何に組織されていたかを次のように説明している。 党の中核となる役職者からなる支援団体に働きかける方法を完成することが必要なだけであった。州の役人がおり、助手がおり、そして議会の絶対多数がいた。各郡には保安官とその副官がいた。あらゆる州、郡および町の判事は潜在的にまた全体に行動的な活動家だった。町ごとに治安判事、学校長が何人かおり、連邦党の町では全ての町の役人が党の仕事をする準備ができていた。あらゆる教区には「代理人」がおり、その「破門」という言葉で少なくとも10人の助祭の票を確保できた。民兵の士官、州の弁護人、法律家、教授およに学校の先生たちはこの「徴兵軍」の先頭に立っていた。全体に約1000人から1100人の個別の役職者が内部の環を構成し、彼らが選挙結果を左右することのできる範囲内では自分の組織以上の票を集められた。これが連邦党のマシーンだった。 連邦党に力があるので、民主共和党が勝つためにはそれ以上の努力が必要だった。1806年、州の指導者が次の選挙のための支持を町の指導者に送った。あらゆる町の管理者は州の指導者から「町の各地区に一人の地区監督者を指名し、その監督者が誠実に義務を果たす確認を得ること」と告げられた。続いて、町の監督者は、税金を払っている人の数、資格のある投票者の数、何人が民主共和党に決め、何人が連邦党に決め、また未定であるか、現在は投票資格が無いが次の選挙では(納税や年齢で)資格ができる支持者はどのくらいいるかなどの報告を求められた。これら詳細な報告が郡の監督者に届けられた。それが郡全体の統計値にまとめられ、州の監督者に送られた。新しく集計された投票者のデータを元に町の監督者は町の集会に投票権者を集めるように言われ、また若い者が投票権を取得する手伝いをするよう告げられた。毎年の町の公式集会では、監督者は「どれだけ民主共和党員がいるかに気をつけ、全作業が終わるまで残って投票を見届けること。各地区監督者は欠席した民主共和党員の名前と、もし知りうるなら欠席の理由も町の監督者に報告する」よう言いつけられた。監督者の仕事で最も重要なことは地方の選挙の候補者を指名することであり、党公認候補者名を印刷して配ることであった。州の監督者は党の新聞をそれぞれの町に配り、町の監督者はそれを地区の監督者に配る責任があった。この高度に組織化された投票推進運動は現代の選挙運動にも通じるものがあるが、世界の歴史の中でも初めての類のものであった。 この当時のコネチカットは繁栄しており、海港は多忙で最初の繊維工場が造られていた。米英戦争のあいだ、アメリカの禁輸措置とイギリスの海上封鎖により、輸出業には大きな打撃となったが、これが国内産業の急速な成長を促すことになった。イーライ・ホイットニーは、コネチカット州を機械工具や工業技術の分野で世界のリーダーにした多くの技術者や発明家の一人である。コネチカット州はその連邦党やティモシー・ドワイトのイェール大学によって代表される政治的な保守性で知られた。顕著な知識人はドワイトの他に、ニューヘイブンで大きな辞書を編纂したノア・ウェブスターがいた。宗教的には会衆派教会が連邦党と結託しており、その力を維持しようとしていたので、州の評価を二分させていた。1814年に開催されたハートフォード会議の失敗によって連邦党は失墜し、1817年には民主共和党に完全に打ち負かされた。
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