建国前
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384年11月、信都の西から後燕の慕容農が翟遼を魯口で撃破した。翟遼は退いて無極に駐屯し、慕容農は藁城に駐屯してこれに迫った。12月、後燕の慕容麟と慕容農は翟遼を襲って大破し、翟遼は単騎で翟真の所へ奔走した。 385年4月、翟真が承営から行唐に移ると、翟真の司馬である鮮于乞は翟真および諸翟人を殺し、自ら立って趙王となった。営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成を立てて主とした。しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟遼は黎陽に奔走した。 386年1月、黎陽に逃れた翟遼は黎陽郡太守の滕恬之に甚だ寵愛されたが、滕恬之が士卒から信用されていないことを知ると、密かに謀りごとを企てた。そして滕恬之が南の鹿鳴城を攻めた際、後方にいた翟遼は閉門して滕恬之が帰って来られないようにし、東の鄄城に奔走しようとした滕恬之を追って捕え、黎陽を乗っ取った。これを知った豫州刺史の朱序は将軍の秦膺と童斌を遣わし、淮・泗の諸郡と共にこれを討った。3月、泰山郡太守の張願は郡ごと叛いて翟遼に降った。8月、翟遼は譙で略奪をおこなったため、朱序によって撃退された。 387年1月、翟遼は子の翟釗に陳・潁を略奪させたが、朱序が派遣した秦膺によって撃退された。4月、高平の翟暢は太守の徐含遠を捕え、郡ごと翟遼に降った。5月、後燕の慕容垂は自ら諸将を率いて南の翟遼を攻め、太原王の慕容楷を前鋒都督とした。翟遼の衆は皆、燕・趙の出身であったため、慕容楷が攻めてくるのを聞くとこれに帰順した。懼れた翟遼は使者を送って降伏を請うた。慕容垂はこれを承諾し、翟遼を徐州牧・河南公に封じて帰還した。10月、翟遼は後燕に叛き、王祖や張申とともに清河郡・平原郡を略奪した。
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建国前
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「南アフリカ共和国の白人」の記事における「建国前」の解説
南アフリカにおける白人入植の歴史は、1652年にオランダ東インド会社がヤン・ファン・リーベックの監督下で喜望峰を開拓した事に端を発する。 その事から、オランダ出身の役人や入植者が大部分を占めていたにも関わらず、本国での宗教的迫害から逃れたフランスのユグノーや、アジアでの役務を終えたドイツ出身の兵士や船員なども定住する様になった。 その後、オランダ領ケープ植民地(英語版)が正式に発足した事に伴い、西ヨーロッパ出身の白人男性による大規模な入植が始まった当初は、同地において白人女性は殆どいなかった。それを補うべく、本国から本妻を呼び寄せたり、孤児の少女を集団で送り込んだほか、現在のインドネシアにあたる地域から連行されてきた、後にケープマレーと呼称される奴隷の女性達も到着するようになった。しかし、当然ながらそれだけでは問題の解決には至らず、多くの白人男性は、使役するコイコイ人や奴隷の女性と結婚したほか、性行為を強要し続けた。また、オランダ東インド会社もケープタウンに女性奴隷を収容した慰安所を設け、女性達は船員達の性奴隷として酷使された。 こうした異人種間の結婚や性暴力が多発した結果、数多くの混血児が生まれる事となった。その影響もあって、2019年2月に、無作為に抽出した77名のアフリカーナーを対象に行われた遺伝子調査では、そのほぼ全員が、非ヨーロッパ人の血統を保持していており、その平均的な割合は約4.8%、単純計算で10代前の祖先(1,024人)のうち50人前後は非ヨーロッパ人となる、という結果が発表された。由来のおおよその割合としては、南アジア系は1.7%、東南アジア系は0.9%、カポイドは1.3%、コンゴイドは0.8%であり、アメリカ先住民の血を引いている事例も確認されている。また、調査対象者における非ヨーロッパ人の血統の割合は、5名が10%以上、21名が5~10%、46名が1~5%、5名が1%未満だった。 ケープ植民地は、その後150年近くに亘ってオランダの統治下に置かれたが、1806年にイギリスへ割譲される事となった。当時、南アフリカには約26,000人のヨーロッパ系移民(英語版)が居住しており、上述の通りその殆どはオランダ出身だった。しかし、1818年頃から数千人のイギリス人移民がケープ植民地に到着し、辺境地の開拓をはじめとする労働への従事と同地への定住が始まった。1830年代のグレート・トレックでは、ケープ植民地におけるアフリカーナーの約5分の1が東に移動し、内陸部にボーア諸共和国(英語版)を建国した。それでも、ケープ植民地におけるヨーロッパからの移民の数は増加し続け、1865年までに181,592人に達した。 1880年から1910年の間にかけて、リトアニア出身者を中心としたユダヤ人や、レバノンとシリアなど西アジアからの移民が流入する様になった。当初、西アジア系移民は非白人たる「アジア人」に分類され、土地を購入する権利を認められなかった。その事から、西アジア系移民の指導者は、自身達と同じキリスト教とユダヤ教の起源である地の出身のセム族であるユダヤ系住民には、土地差別諸法が適用されていない事を指摘すると同時に、西アジア系住民は「白人」であるという旨を、同国の裁判所に提訴した。最終的な司法判断では、同諸法の対象は先住民や黄色人種をはじめとする有色人種に限るとされ、西アジア系住民にも、ユダヤ系住民と同等に、土地購入の権利と「白人」としての地位が認められる事となった。
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