建国初期から全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:40 UTC 版)
西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。 李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である没蔵氏による摂政が行われた。この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。 1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。 1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。1123年、遼の天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなった。 李乾順の死後は息子の李仁孝が即位した。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生した。これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めた。
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