南アフリカ共和国の白人とは? わかりやすく解説

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南アフリカ共和国の白人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 06:43 UTC 版)

南アフリカ共和国の白人
White South Africans (英語)
Blanke Suid-Afrikaners  (アフリカーンス語)
同国のとある白人家族
総人口
4,679,770
南アフリカ共和国総人口の7.8%[1]
居住地域
ハウテン州1,914,000
西ケープ州915,000
クワズール・ナタール州429,000
東ケープ州310,000
ムプマランガ州303,000
北西州255,000
フリーステイト州239,000
リンポポ州139,000
北ケープ州81,000
言語
アフリカーンス語南アフリカ英語
宗教
キリスト教(85.6%)・無宗教(8.9%)・ユダヤ教(0.9%)
関連する民族
アフリカーナーアングロアフリカンカラード

南アフリカ共和国の白人(みなみアフリカきょうわこくのはくじん、英語: White South Africans, アフリカーンス語: Blanke Suid-Afrikaners)では、人類学上コーカソイドに分類される、若しくは人口登録法において「白人」に分類された[2]南アフリカ国籍の人々について解説する。

概要

南アフリカ国内における人口比(2011年)
  •   0–20%
  •   20–40%
  •   40–60%
  •   60–80%
  •   80–100%

2016年の調査では、オランダ東インド会社の手引きによって入植した者の子孫で、アフリカーンス語を第一言語とするアフリカーナーが57.9%、イギリスからの1820年の入植者英語版の子孫で、英語を第一言語とするアングロアフリカンが40.2%を占めるとされている。少数派として、リトアニア出身者を中心とするユダヤ系や、マデイラ諸島出身者を中心とし、モザンビークアンゴラの独立に伴い移住してきたポルトガル系のほか、ドイツギリシャにルーツを持つ者などもいる[3][4]

1994年以前は、白人はアパルトヘイトの下で、絶大な政治的権力を保持していた。同時代においては、日本韓国台湾とは外交関係を維持していた事から、これらの国からの出身者は名誉白人と見なされた[5]。ただし、白人専用のホテル・レストラン等の使用が認められたに過ぎず、永住権や不動産取得等は認められておらず、無論民間における差別感情やそれに伴う差別行為が無かった訳ではない。

1991年に人口登録法は廃止されたにもかかわらず、「白人」「アジア人(主にインド系住民)」「カラード」「黒人」から成る4つの民族集団は、依然として強い人種的アイデンティティを持ち、自分自身や他の人々をいずれかの集団のメンバーとして分類する傾向があり、その事は同国の文化英語版黒人経済力強化政策英語版に代表されるアファーマティブ・アクションといった、政府の政策にも根深い影響を残し続けている[2][6]

歴史

建国前

ヤン・ファン・リーベックが、1652年4月6日にテーブル湾へ上陸する様子を描いた絵画

南アフリカにおける白人入植の歴史は、1652年オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベックの監督下で喜望峰を開拓した事に端を発する[7]

その事から、オランダ出身の役人や入植者が大部分を占めていたにもかかわらず、本国での宗教的迫害から逃れたフランスユグノーや、アジアでの役務を終えたドイツ出身の兵士や船員なども定住する様になった[8]

その後、オランダ領ケープ植民地英語版が正式に発足した事に伴い、西ヨーロッパ出身の白人男性による大規模な入植が始まった当初は、同地において白人女性は殆どいなかった。それを補うべく、本国から本妻を呼び寄せたり、孤児の少女を集団で送り込んだほか、現在のインドネシアにあたる地域から連行されてきた、後にケープマレーと呼称される奴隷の女性達も到着するようになった。しかし、当然ながらそれだけでは問題の解決には至らず、多くの白人男性は、使役するコイコイ人や奴隷の女性と結婚したほか、性行為を強要し続けた。また、オランダ東インド会社もケープタウンに女性奴隷を収容した慰安所を設け、女性達は船員達の性奴隷として酷使された[9]

こうした異人種間の結婚や性暴力が多発した結果、数多くの混血児が生まれる事となった。その影響もあって、2019年2月に、無作為に抽出した77名のアフリカーナーを対象に行われた遺伝子調査では、その全員が、非ヨーロッパ人の血統を保持していており、その平均的な割合は約4.8%、単純計算で10代前の祖先(1,024人)のうち50人前後は非ヨーロッパ人となる、という結果が発表された。由来のおおよその割合としては、南アジア系は1.7%、東南アジア系は0.9%、カポイドは1.3%、コンゴイドは0.8%であり、アメリカ先住民の血を引いている事例も確認されている。また、調査対象者における非ヨーロッパ人の血統の割合は、5名が10%以上、21名が5~10%、46名が1~5%、5名が1%未満だった[10]

ケープ植民地は、その後150年近くに亘ってオランダの統治下に置かれたが、1806年にイギリスへ割譲される事となった[11]。当時、南アフリカには約26,000人のヨーロッパ系移民英語版が居住しており、上述の通りその殆どはオランダ出身だった[11]。しかし、1818年頃から数千人のイギリス人移民がケープ植民地に到着し、辺境地の開拓をはじめとする労働への従事と同地への定住が始まった[11]。1830年代のグレート・トレックでは、ケープ植民地におけるアフリカーナーの約5分の1が東に移動し、内陸部にボーア諸共和国英語版を建国した[12]。それでも、ケープ植民地におけるヨーロッパからの移民の数は増加し続け、1865年までに181,592人に達した[13]

1880年から1910年の間にかけて、リトアニア出身者を中心としたユダヤ人や、レバノンシリアなど西アジアからの移民が流入する様になった。当初、西アジア系移民は非白人たる「アジア人」に分類され、土地を購入する権利を認められなかった。その事から、西アジア系移民の指導者は、自身達と同じキリスト教とユダヤ教の起源である地の出身のセム族であるユダヤ系住民には、土地差別諸法が適用されていない事を指摘すると同時に、西アジア系住民は「白人」であるという旨を、同国の裁判所に提訴した。最終的な司法判断では、同諸法の対象は先住民や黄色人種をはじめとする有色人種に限るとされ、西アジア系住民にも、ユダヤ系住民と同等に、土地購入の権利と「白人」としての地位が認められる事となった[14][15]

建国後

第二次ボーア戦争におけるアフリカーナーのゲリラ

1911年に南アフリカで初めて実施された国勢調査では、白人の人口は1,276,242人に及ぶという結果が示された。白人の推定人口は、1936年には2,003,857人、1946年には2,372,690人に達した[14]

また、南アフリカ政府は20世紀半ばから後半にかけて、ドイツ・イタリア・オランダ・ギリシャ・ローデシアポルトガルの海外領土から、数万人のヨーロッパ系移民を受け入れを実施し、ピーク時の1990年における白人の人口は5,044,000人にまで達した[16]

アパルトヘイト撤廃後の1994年に施行された雇用均等法では、黒人や印僑、華僑、カラード、障碍者の雇用が促進される事となった。

黒人経済力強化政策は、黒人の株式構成比率を一定以上とする事と、彼等へ与える所有権・雇用・訓練・社会的責任の取り組みを、入札の際の重要な基準とみなし、民間企業にも同法を遵守する事を義務と定めた為、黒人には大きな権限が与えられる事となった[17]

アパルトヘイト撤廃後においては、白人の貧困層が急増している事が指摘されている。2006年にイギリスのガーディアン紙は、35万人以上のアフリカーナーが貧困層に分類され、かつその内の15万人弱が、日雇い労働者として、その日暮らしを余儀なくされていると報じた[18][19]

加えて、初の全人種参加選挙英語版が実施された1994年から2005年頃にかけて、治安の悪化や雇用機会の喪失などを理由に、100万人以上の南アフリカの白人が海外へ流出し、特にイギリス・オーストラリアアメリカカナダニュージーランドといった英語圏では、大規模なコミュニティを形成している[20][21]。しかし、世界金融危機により白人の国外への流出は鈍化し、2014年5月の時点で、約34万人の南アフリカ国籍の白人が、本国へ帰国したと推定されている[22]

今日における南アフリカの白人社会は、アフリカ大陸における脱植民地化の最中に、他のアフリカ諸国から植民地主義者が大量に流出したこともあり、同大陸におけるヨーロッパ及び一部西アジアにルーツを持つ者達の、事実上唯一のコミュニティであると見なされており、特にアングロアフリカンは、同国の政財界において、現在でも主要な地位を占めている。

脚注

  1. ^ Mid-year population estimates 2020”. 2020年8月14日閲覧。
  2. ^ a b Posel, Deborah (2001). “What's in a name? Racial categorisations under apartheid and their afterlife”. Transformation: 50–74. ISSN 0258-7696. オリジナルの2006年11月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20061108101109/http://www.transformation.und.ac.za/issue%2047/47%20posel1.pdf. 
  3. ^ South Africa – Community Survey 2016”. www.datafirst.uct.ac.za. 2018年11月25日閲覧。
  4. ^ Census 2011: Census in brief. Pretoria: Statistics South Africa. (2012). p. 21. ISBN 9780621413885. オリジナルの13 May 2015時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150513171240/http://www.statssa.gov.za/census/census_2011/census_products/Census_2011_Census_in_brief.pdf 
  5. ^ Honorary Whites Archived 15 January 2016 at the Wayback Machine., TIME, 19 January 1962
  6. ^ Pillay, Kathryn (2019). Indian Identity in South Africa. pp. 77–92. doi:10.1007/978-981-13-2898-5_9. 
  7. ^ Hunt, John (2005). Campbell, Heather-Ann. ed. Dutch South Africa: Early Settlers at the Cape, 1652–1708. Philadelphia: University of Pennsylvania Press. pp. 13–35. ISBN 978-1904744955 
  8. ^ Keegan, Timothy (1996). Colonial South Africa and the Origins of the Racial Order (1996 ed.). David Philip Publishers (Pty) Ltd. pp. 15–37. ISBN 978-0813917351. https://archive.org/details/colonialsouthafr0000keeg 
  9. ^ 峯陽一南アフリカ 「虹の国」への歩み』(第1刷)岩波書店岩波新書〉、1996年11月20日。ASIN 4004304733ISBN 978-4004304739全国書誌番号:97044727https://books.google.co.jp/books/about/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB_%E8%99%B9%E3%81%AE%E5%9B%BD_%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF.html?id=MaiAtgAACAAJ&hl=ja 
  10. ^ Hollfelder N, Erasmus JC, Hammaren R, Vicente M, Jakobsson M, Greeff JM (2020). “Patterns of African and Asian admixture in the Afrikaner population of South Africa.”. BMC Biol 18 (1): 16. doi:10.1186/s12915-020-0746-1. PMC 7038537. PMID 32089133. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7038537/. 
  11. ^ a b c Lloyd, Trevor Owen (1997). The British Empire, 1558–1995. Oxford: Oxford University Press. pp. 201–203. ISBN 978-0198731337 
  12. ^ Greaves, Adrian. The Tribe that Washed its Spears: The Zulus at War (2013 ed.). Barnsley: Pen & Sword Military. pp. 36–55. ISBN 978-1629145136 
  13. ^ Census of the colony of the Cape of Good Hope. 1865”. HathiTrust Digital Library. p. 11 (1866年). 2017年9月24日閲覧。
  14. ^ a b Shimoni, Gideon (2003). Community and Conscience: The Jews in Apartheid South Africa. Lebanon, New Hampshire: University Press of New England. pp. 1–4. ISBN 978-1584653295 
  15. ^ The Struggle Of The Christian Lebanese For Land Ownership In South Africa”. Maronite Institute. 2015年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月12日閲覧。
  16. ^ Kriger, Robert; Kriger, Ethel (1997). Afrikaans Literature: Recollection, Redefinition, Restitution. Amsterdam: Rodopi BV. pp. 75–78. ISBN 978-9042000513 
  17. ^ Redirecting old link”. 2010年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月18日閲覧。
  18. ^ Simon Wood meets the people who lost most when Mandela won in South Africa”. The Guardian. 2015年3月18日閲覧。
  19. ^ Foreign Correspondent – 30/05/2006: South Africa – Poor Whites”. ABC. 2007年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月18日閲覧。
  20. ^ Population of South Africa by population group”. Dammam: South African Department of Agriculture, Forestry, and Fisheries (2004年). 2005年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月20日閲覧。
  21. ^ Peet van Aardt (2006年9月24日). “Million whites leave SA – study”. 24.com. 2008年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月5日閲覧。
  22. ^ Jane Flanagan (2014年5月3日). “Why white South Africans are coming home”. Bbc.co.uk. https://www.bbc.com/news/world-africa-27252307 2016年1月15日閲覧。 



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