クフナ・ウルゲンチとは? わかりやすく解説

クフナ‐ウルゲンチ【Köneürgenç】


クフナ・ウルゲンチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 04:20 UTC 版)

クフナ・ウルゲンチ
Köneürgenç
位置
クフナ・ウルゲンチ
クフナ・ウルゲンチ (トルクメニスタン)
座標 : 北緯42度19分0秒 東経59度9分27秒 / 北緯42.31667度 東経59.15750度 / 42.31667; 59.15750
歴史
建設 紀元前5世紀 - 紀元前2世紀
最初の言及 紀元前3世紀 - 紀元前1世紀
行政
トルクメニスタン
  ダショグズ州
 地区 クフナ・ウルゲンチ地区英語版
 市 クフナ・ウルゲンチ
人口
人口 (2022年現在)
  市域 37,176人
  備考 [1]
その他
等時帯 トルクメニスタン時間 (UTC+5)
市外局番 +993 347
ナンバープレート DZ

クフナ・ウルゲンチトルクメン語: Köneürgençペルシア語: کهنه‌گرگانجロシア語: Кёнеургенч, Куня-Ургенч)は、旧ウルゲンチとも訳されるトルクメニスタン北東部の都市である。人口は約3.7万人(2022年国勢調査[1])であり、ウズベキスタンとの国境線に位置する。新ウルゲンチと呼ばれる現在のウルゲンチは、ウズベキスタンの都市となっている。12世紀には、ホラズム・シャー朝の首都として機能していた。2005年に、UNESCO世界遺産に登録された。

歴史

クフナ・ウルゲンチはアムダリヤ川沿岸にあり、シルクロードにおける最大の都市であった。クフナ・ウルゲンチが築かれた正確な年代は不明だが、Kyrkmollaの要塞は、ハカーマニシュ朝にまで遡る。

12世紀から13世紀初頭にかけてクフナ・ウルゲンチは最盛期を迎える。中央アジアでクフナ・ウルゲンチをしのぐ人口を誇った都市はブハラを除いて他になかった。しかし、1221年チンギス・ハンが中央アジアへの進出を開始して、人類史に類を見ない大虐殺を展開した(チンギス・カンの西征en:Mongol invasion of Khwarezmia and Eastern Iran)。

クフナ・ウルゲンチは、チンギスによる虐殺の後に復興を見せることとなるが、1370年代には、アムダリヤ川の流れが北に変わったことにより、自然による都市の破壊が始まった。1370年代には、クフナ・ウルゲンチは放棄され、北には新ウルゲンチと呼ばれる都市が新たに建設されることとなった。時代は既にティムール朝の時代へと変わっていた。

クフナ・ウルゲンチでの最初の考古学の調査が実施されたのは1929年のことであった。

現在のクフナ・ウルゲンチの遺構は、多くが全壊あるいは半壊に近い状況である。今日では、クフナ・ウルゲンチの遺構の中心は、12世紀に建設された3つの小さな廟建築と14世紀に建設されたTurabek-Khanum廟である。後者は、1990年代に大部分が修復された。

Kutlug-Timur Minaret

また、クフナ・ウルゲンチで最も高い建築物は、11世紀に建設されたKutlug-Timur Minaretと呼ばれるミナレットである。煉瓦で建設され、高さは、60メートルに及び、アフガニスタンにあるジャームのミナレットと並んで、ミナレットの高さでは世界一を争う。この円錐状の形をしたミナレットは、クフナ・ウルゲンチにおける廟建築でも著名なものは、1172年に死亡したホラズム王イル・アルスランの廟である。

世界遺産

クフナ=ウルゲンチ
トルクメニスタン
スルタン・テケシュ廟
英名 Kunya-Urgench
仏名 Kunya-Urgench
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(3)
登録年 2005年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

出典

  1. ^ a b Köneürgenç”. Citypopulation (2025年2月16日). 2025年3月10日閲覧。

クフナ・ウルゲンチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:34 UTC 版)

ウルゲンチ」の記事における「クフナ・ウルゲンチ」の解説

ウルゲンチ歴史あらわれたのは比較遅く動静はっきりするのはホラズムイスラム化以降である。もともとはペルシア系住民多く住んでいたが、アラル海周辺草原地帯通じて現在のカザフ草原に住むテュルク系遊牧民たちの交易拠点となり、「草原の港」として経済的に発展した10世紀には、ウルゲンチ拠点とする土着のペルシア人君侯右岸カースにいるホラズム・シャー(ホラズム王)から独立し、さらにカース併合して自らホラズム・シャーを自称したので、その本拠地であるウルゲンチは全ホラズム中心都市となった11世紀テュルク系王朝ガズナ朝セルジューク朝あいついで中央アジア席捲するとホラズムもその支配を受け、ウルゲンチにはマムルーク奴隷軍人)出身将軍総督として派遣されてくるようになった12世紀に入るとセルジューク朝ホラズム総督がホラズム・シャーを自称して独立しウルゲンチホラズム・シャー朝首都となったホラズム・シャー朝のもとでカンクリ族などテュルク系遊牧民の流入定住化増加しウルゲンチ住民のほとんどはテュルク系言葉を話すようになっていった。 12世紀末から13世紀初頭にかけ、ホラズム・シャー朝中央アジアからイラン広がるセルジューク朝旧領支配する大帝国発展すると、ウルゲンチはその都として繁栄をきわめ、当時イスラム世界において最も壮大豊かな都市であると言われるほどになった。この時代には市街地アムダリヤ川越え、川をまたいで両岸広がっていたといわれる。しかし、ホラズム・シャーのアラーウッディーン・ムハンマドと、その外戚カンクリ族の間での対立深まり、アラーウッディーンはカンクリ族の影響が強いウルゲンチ離れてサマルカンド移った1220年中央アジア席捲したモンゴル帝国チンギス・ハーンは、長男ジョチ次男チャガタイ率いる軍をホラズム送り込みウルゲンチ包囲したチンギス・カンの西征モンゴルのホラズム・シャー朝征服)。ウルゲンチカンクリ軍人たち中心になって頑強に抵抗しジョチチャガタイ兄弟仲不和であったことにも助けられ長期篭城続けたが、1221年攻略され、都市徹底的に破壊された。

※この「クフナ・ウルゲンチ」の解説は、「ウルゲンチ」の解説の一部です。
「クフナ・ウルゲンチ」を含む「ウルゲンチ」の記事については、「ウルゲンチ」の概要を参照ください。

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