クフォルデン包囲戦 (1672年)とは? わかりやすく解説

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クフォルデン包囲戦 (1672年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/05 06:55 UTC 版)

クフォルデン包囲戦

ブレデフォールト要塞の地図、1784年作。
戦争仏蘭戦争
年月日:第一次:1672年6月29日 - 7月11日
第二次:1672年12月27日 - 12月30日
場所ドレンテ伯領英語版クフォルデン英語版
結果:第一次:ミュンスターの勝利
第二次:オランダの勝利
交戦勢力
ネーデルラント連邦共和国 ミュンスター司教領英語版
指導者・指揮官
カール・フォン・ラーベンハウプト英語版
メンデルト・ファン・デル・タイネンオランダ語版
クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン英語版
戦力
1,500(第二次) 700-800(第二次)
損害
戦死50(第二次) 戦死150(第二次)
脱走200(第二次)
捕虜400(第二次)

クフォルデン包囲戦(クフォルデンほういせん、オランダ語: Beleg van Coevorden)は仏蘭戦争中の1672年に2度行われた、クフォルデン英語版の包囲。

第一次包囲(1672年6月 - 7月)

クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン英語版ヴォルフガング・ハイムバッハ英語版作、1670年。

ネーデルラント連邦共和国(オランダ)はランプヤール英語版(災難の年)である1672年、フランス王国イングランド王国と開戦した。第一次無総督時代英語版にあったオランダでは多くの要塞が整備されず、フランス軍にユトレヒトまで迫られてしまった。ケルン選帝侯とミュンスター司教はこれを好機と見、ミュンスター司教クリストフ・ベルンハルト・フォン・ガレン英語版はオランダに侵攻して6月29日にクフォルデン要塞に到着、7月1日に砲撃を開始した。

5日間の戦闘の後、フォン・ガレンはクフォルデンに降伏勧告を行った断られ、戦闘は継続した。しかし、ミュンスター軍がクフォルデンの補給倉庫を占領すると、形勢が変化した。フォン・ガレンは7月11日に2度目の降伏勧告を行うが、クフォルデンの指揮官が代表として派遣した大尉3名は3日間の停戦を提案した。フォン・ガレンは停戦の提案を拒否、大尉2人を捕らえたが3人目はクフォルデンへ逃げた。クフォルデンでは作戦会議が開かれ、駐留軍が栄誉をもって撤退することを許された場合には降伏すると決議した。フォン・ガレンはこの提案を受け入れ、同日に降伏文書が署名され、クフォルデンが降伏した。

第二次包囲(1672年12月)

クフォルデンは降伏した後ミュンスター軍に略奪され、多くの市民が不満に感じて同市から去った。9月に家族とともにフローニンゲン州へ向かったメンデルト・ファン・デル・タイネンオランダ語版もその1人だった。翌月、彼はクフォルデンの元指揮官カール・フォン・ラーベンハウプト英語版少将を訪れ、クフォルデンの奪還を提案した。ラーベンハウプトははじめタイネンの計画を疑問視したが、タイネンがクフォルデンの守備についての情報を有していることを知るとその計画に興味を示し、タイネンにクフォルデンの地図を作成するよう求めた。タイネンの計画は葦で橋を造ることであり、川が氷結するとそれを使ってクフォルデンに簡単に侵入することができる。ラーベンハウプトは計画を承認して準備を進めた。

12月27日、ファン・エイベルヘン(Van Eybergen)率いる軍勢1,500はクフォルデンに向かった。進軍がクフォルデンにいるミュンスター軍に知られないよう、騎兵がクフォルデンへの道を封鎖したが、竜騎兵の一部が封鎖を突破してクフォルデン駐留軍に知らせて守備の準備を進めさせた。

12月29日の夜、オランダ軍はクフォルデン近くで軍営をもうけた。翌朝8時、オランダ軍は霧に紛れ、三手に分かれて進撃した。ファン・エイベルヘンはクフォルデン城の方角から、ウェイレルス少佐(Wijlers)はホラント角堡へ、シキンゲ少佐(Sickinge)はオーファーアイセル角堡近くのフリース門へ進撃した。ファン・エイベルヘンとともに進軍したタイネンは率先して川を渡った。塁壁では激しい戦闘が起こったがそれも短期間しか持続せず、ミュンスター軍はすぐに敗走した。その後、オランダ軍は市場、フリース門、城などを続々と占領した。数人の軍楽手にあったタイネンがプリンセンマルス実際、ミュンスター軍は大混乱に陥って反撃どころではなくなり、クフォルデンは1時間で陥落した。

戦闘の損害はオランダ軍が戦死50のに対し、ミュンスター軍は戦死150、逃亡200、捕虜400だった。

その後

オランダの戦勝に全国が歓喜した。フォン・ラーベンハウプトはドレンテ州ランドロスト英語版とクフォルデンの総督に任命され、ファン・エイベルヘンはクフォルデン市の駐留軍の指揮官に任命された。タイネンも金メダルと銀メッキの記念杯を授与された。

しかし、この一戦で危機が去ったわけではなかった。フォン・ガレンは1673年秋にクフォルデンの再占領を試みた。彼はフェクト川英語版を利用してクフォルデン周りを水没させて降伏させようとしたが、嵐により10月1日にフェクト川のダムが決壊、ミュンスター軍が約1,400人の死者を出す結果となった。ミュンスター軍はその後、フラムスベルヘン英語版ラール英語版に退却した。

参考文献

  • Stipriaan, R. van (2005) Ooggetuigen van de Gouden Eeuw. Bert Bakker, Amsterdam, p. 215-217
  • Veenhoven, A. (1969) Historie van Coevorden. Wolters-Noordhoff, Groningen, p. 80-89
  • Gerding, M. en Hillenga, M. (2007) Het Drenthe Boek. Waanders, Zwolle, p. 60
  • Dreiskämper, P. (1998) Redeloos, reddeloos, radeloos. Verloren, Hilversum, p. 50
  • Roorda, D. J. (1971) Het Rampjaar 1672. Fibula-Van Dishoeck, Bussum, p. 74-75, 109
  • Heringa, J. e.a. (1985) Geschiedenis van Drenthe. Boom Koninklijke Uitgevers, Meppel, p. 418-419

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