インド滞在、中央アジアへの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 19:12 UTC 版)
「ジャラールッディーン・メングベルディー」の記事における「インド滞在、中央アジアへの帰還」の解説
生き延びた少数の部下とともにインド北部のパンジャーブ地方に逃げ込んだジャラールッディーンが最初に行ったのは、物資を調達するための略奪だった。バラ・チェルビ、ドルベイ率いるモンゴルの追撃隊が接近していることを知ると、彼はさらにデリーに南下した。彼を見失ったバラ・チェルビ、ドルベイはシンド地方の王侯ナースィルッディーン・カバーチャ(英語版)の統治するムルターンを攻撃するが攻めあぐね、酷暑に耐えかねて中央アジアに戻っていった。 1222年にジャラールッディーンは奴隷王朝のスルターン・シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュに保護を願い出るが丁重な断りを受け、パンジャーブに戻り、敵対していたカバーチャを攻撃する。しかし、イルトゥトゥミシュやカバーチャら北インドの諸勢力が連合するに及んで、部下の勧めによってペルシアへの帰還を決意した。部下の中には将軍ウズベクのようにモンゴルからの攻撃を避けるためにインドに留まるべきだと進言する者もいたが、彼はウズベクにインドの統治を任せ、3年の滞在を終えて帰国の途に就いた。 ジャラールッディーンがインドに逃れる前後に、ホラズム・シャー朝の都市の多くがモンゴルの手に落ち、ジャラールッディーンの兄弟たちのほとんどが戦死した。ジャラールッディーンに遅れてクフナ・ウルゲンチから脱出したウズラグ・シャーとアークシャーは逃走中に追撃を受けて戦死し、イラク方面を所領としていた兄弟のルクヌッディーンも6か月に及ぶ籠城戦の末に降伏を拒んで落命した。別の兄弟ギヤースッディーンはホラズム・シャー朝の君主としてイラク、ホラーサーン、マーザンダラーンを統治していたが、近隣の領主と対立しており、将兵たちの中にはジャラールッディーンの元に逃亡する者もいた。 1223年にジャラールッディーンの軍は、砂漠を横断してケルマーン地方に到着する。ケルマーンの領主バラク・ハージブ(ケルマーン・カラヒタイ朝の建国者)を帰順させ、シーラーズを統治していたアタベク政権のサルガル朝と婚姻関係を築いたが、いずれの勢力もギヤースッディーンと敵対していた。ギヤースッディーンの統治するイスファハーンに進軍し、将校たちの支持を受けてギヤースッディーンより支配者の地位を奪還した。ギヤースッディーンの一派、モンゴル侵入後の混乱期にイラク、ホラーサーン、マーザンダラーンで独立した領主たちがジャラールッディーンの元に出頭すると、彼らの行為に応じて赦免、あるいは懲罰を与え、彼の権威は領内に行き渡った。
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