チンギス・カンの西征
チンギス・カンの西征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 15:44 UTC 版)
「モンゴルのルーシ侵攻」の記事における「チンギス・カンの西征」の解説
詳細は「チンギス・カンの西征」を参照 1220年代のはじめ、ルーシの公たちは、まずキプチャク草原の遊牧民族クマン人の戦士たちからモンゴルの到来を知らされた。クマン人はルーシの辺境の集落を略奪するため盛んに対立していた時代もあったが、当時は両者の関係は平和であり、クマン人は隣人に警戒すべき敵の到来を知らせている。「この恐ろしい異邦人はすでに我々の国を奪おうとしている。もし諸君が我々を助けに来なければ、明日には諸君らの国が奪われるだろう。」これに応え、ルーシ諸公のうち、ムスチスラフ・ムスチスラヴィチおよびムスチスラフ3世が連合軍を組み、クマン人と東へ向かい侵略軍を迎え撃った。これが1223年のカルカ河畔の戦いである。数で優勢だったルーシ連合軍はモンゴル軍の前に大敗した。この戦いは、今もロシアやウクライナでは記憶されている。 しかしこの戦いの後、モンゴル軍はルーシ連合軍を追うのをやめてヴォルガ・ブルガールへと向かい(1223年のヴォルガ・ブルガール侵攻)、サマラ屈曲部の戦い(英語版)(ケルネクの戦い)でブルガールに敗れ、やがて東へと去ってしまった。モンゴルの脅威は忘れ去られ、ルーシの諸公はまた前のように互いに抗争を続けた。その13年後、再びモンゴル軍はルーシの前に姿を現した。しかも今回は前よりも大軍で、前よりも容赦がなかった。
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