チンギス・カンの中央アジア征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)
「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「チンギス・カンの中央アジア征服」の解説
華北の制圧後に行われた中央アジア遠征(モンゴルのホラズム・シャー朝征服)においても征服民・征服地の分配は行われた。中央アジアにおける分地分民に関する記録は少ないが、ウルゲンチの陥落に関して興味深い逸話が記録されている。『元朝秘史』などによると、ウルゲンチを陥落させたジョチ、チャガタイ、オゴデイら王子たちが城民をチンギス・カンに諮ることなく勝手に分け合ったため、激怒したチンギス・カンによって数日間謁見を許さなかったという。この逸話にはモンゴルの征服民支配について、(1)諸王は征服地で得た民を取るのは当然の権利と考えていたこと、(2)これに対し、チンギス・カンは征服戦争で得た民は一族全体の共有物であり、君主(カン/カアン)の手によって公平に分配されるものであると考えていたこと、の2点が示されている。このように、モンゴルの諸王には征服戦争で得た民を自らのものとする権利を有するが、それは君主(カン/カアン)による公平な分配を経なければならない、という原則は後の華北投下・江南投下の分配にも引き継がれている。 また、ジュヴァイニーの『世界征服者史』にはチンギス・カンの長子ジョチがシル川下流域のジャンド市を攻略した際に「その地方の統治と行政」のためアリー・ホージャなる人物を派遣したこと、またヤンギ・ケントでは「シャフネ(=ダルガチ)を置いた」ことが記録されている。これは、まさにジャンド市やヤンギ・ケントがジョチ家(ジョチ・ウルス)の投下領になったことを意味しており、同様に他の城市もトゥルイやチャガタイら諸王によってダルガチ=シャフネが置かれそれぞれの投下領にされたとみられる。 このように、中央アジアの諸都市も華北と同様にモンゴル王侯たちによって分割されたとみられるが、その内実は東アジアと比べほとんどわかっていない。これは、後に中央アジアー帯がオゴデイ家・チャガタイ家によって占有されて他家の権益が排除されたこと、オゴデイ家やチャガタイ家では東方の『元史』、西方の『集史』のような浩潮な史書が編纂されなかったことによる。 同様に、チンギス・カン最後の外征となった1227年の西夏平定後にも投下の分配が行われた。この遠征では東道諸王は参加せず西道諸王のみ参加したため、西夏の都市はバトゥ(ジョチの息子。ジョチは既にチンギスに先立って亡くなっていた)、チャガタイ、オゴデイの3名によって分割された。西夏においても西道諸王にはほぼ同規模の投下(沙州・山丹州・西涼)をそれぞれ与えられており、ここでも「征服による成果は一族共有のもの」という理念が受け継がれていることが確認される。
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