チンギス・カンの征服と「帝国」化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)
「モンゴル帝国」の記事における「チンギス・カンの征服と「帝国」化」の解説
詳細は「チンギス・カンの西征」を参照 即位したチンギス・カンは南の西夏に親征し、これを服属させた。さらに、1211年には西遼に服属していた天山ウイグル王国が帰順し、モンゴル高原西部のオイラト、トメト、カルルク、西遼などの周辺諸国に次々に遠征軍を送って帰順と征服を達成し、南シベリア、中央アジアまで勢力を広げた。 同じ1211年からは金朝に遠征して中国の東北地区(満州)と華北を席捲し、金朝皇帝宣宗は先代衛紹王の公主をチンギスに嫁がせて和睦を結んだが、1214年には首都の中都(後の大都)を放棄して河南の開封へ遷都し、金朝は河南のみを支配する小国に転落した。 1218年からは中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、スィル川(シルダリア川)流域からイランまでを支配する大国ホラズム・シャー朝に侵攻した。モンゴル軍はサマルカンド、ブハラ、ウルゲンチ、ニーシャープール、ヘラートなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、ホラズム・シャー朝は壊滅した。チンギス・カンの本隊はガズニーを領有していたホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためにアフガニスタン方面へ進軍し、ホラーサーンのバルフやバーミヤーンなどの大都市をことごとく殲滅しながら南下して行った。しかし、バーミヤーンではチャガタイの長男モエトゥゲンが戦死し、アフガニスタン中南部のパルワーンでは駐留していたボルテの養子シギ・クトクの軍がジャラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けた(パルワーンの戦い)。チンギスはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、マー・ワラー・アンナフルから南下してジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として捕縛は出来なかったものの撃退することには成功した(インダス河畔の戦い)。 一方、カスピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベ、スベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンを取り逃がしたものの、そのまま捜索を続けてアゼルバイジャンからカフカスを抜けてロシアに至り、ルーシ諸公を破って勇名を轟かせた(カルカ河畔の戦い)。 モンゴリア本土への帰還後、チンギス・カンは中央アジア遠征への参加の命令に従わなかった西夏への懲罰遠征に赴いたが、1227年、西夏を完全に滅ぼす直前に陣中で病没した。
※この「チンギス・カンの征服と「帝国」化」の解説は、「モンゴル帝国」の解説の一部です。
「チンギス・カンの征服と「帝国」化」を含む「モンゴル帝国」の記事については、「モンゴル帝国」の概要を参照ください。
- チンギス・カンの征服と「帝国」化のページへのリンク