天山ウイグル王国
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天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、9世紀から13世紀にかけて現在の新疆ウイグル自治区に存在した古代ウイグル人の国家。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。
- ^ 『旧唐書』や『新唐書』ではこの事件を「僕固俊が吐蕃を撃退した」としているが、森安孝夫は僕固俊によるクーデターとし、吐蕃ではなく厖テギン可汗の勢力を一掃したとしている。
- ^ 森安孝夫『ウイグルの西遷について』、『新唐書』
- ^ 『遼史』表第八(属国表)
- ^ 藤枝晃『高昌回鶻と亀茲回鶻』
- ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』p62
- ^ 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、336頁
- ^ バルトリド『中央アジア史概説』、62頁
- ^ 梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、133,139頁
- ^ 安部1955,7-8頁
- ^ 安部1955,9-11頁
- ^ 安部1955,15-17頁
- ^ (『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)
- ^ ドーソン『モンゴル帝国史1』p96-97
- ^ 安部1955,24-26頁
- ^ 松井2002,89-90頁
- ^ 安部1955,43-49頁
- ^ 安部1955,84-89頁
- ^ 安部1955,92頁
- ^ 劉2006,268頁
- ^ 安部1955,95-97頁
- ^ 安部1955,115-116頁
- ^ 松井1998,9-10頁
- ^ 村上 1976,p84
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」p21
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」p20
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」p2-3
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」
- ^ 森安「西ウイグル仏教のクロノロジー」p28
- ^ 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p337
- ^ 『新元史』や『蒙兀児史記』
- ^ 『新元史』や『蒙兀児史記』
- ^ 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p445-452
- ^ 『モンゴル帝国史2』p291-294
- ^ Louis Hambis (1954). Le chapitre CVIII du Yuan che : les fiefs attribués aux membres de la famille impériale et aux ministres de la cour mongole d'après l'histoire chinoise officielle de la dynastie mongole. Monographies du Tʿoung pao, v. 3.
- ^ トルグン・アルマス 著、東綾子 訳 『ウイグル人』集広舎、2019年12月20日 (原著1989年)、391頁。ASIN 490421384X。ISBN 978-4-904213-84-1。 NCID BB29416497。OCLC 1136689046。全国書誌番号:23316697。
- ^ 劉1984,105-106頁
天山ウイグル王国
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モンゴル帝国に仕えたバルチュク・アルト・テギンの家系について述べる『国朝文類』巻26「高昌王世勲碑」は『世界征服者史』とよく似た伝承を述べ、樹木より生まれた5人の息子の内、最も幼いブグ・カガン(卜古可罕)がバルチュク・アルト・テギンの始祖になったと記す。「高昌王世勲碑」と『世界征服者史』の記述と比べると、ボー・ハーンを生んだ樹木は一つである、5人の子供たちは樹木の間の塚ではなく樹木にできた瘤から生まれた、といった違いが存在する。
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天山ウイグル王国
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詳細は「天山ウイグル王国」を参照 安西に割拠した集団が天山ウイグル国を建国すると、定住化して「ウイグル (Uyghur)」とか「トゥグズグズ (Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧していた時代からソグド人の影響を受けマニ教を尊崇していた。天山ウイグル王国では、仏教、ネストリウス派キリスト教なども信仰され、高昌漢文化などを形成した。タリム盆地に先住していた住民はこうしてウイグル化・トルコ化された。 10世紀以降のタリム盆地周辺は、西からイスラーム教が普及してきたが、タリム盆地東部の天山ウイグル国では仏教が根強く、カラ・キタイ(西遼)やモンゴル帝国に服属している間は仏教が信仰された。 13世紀にモンゴル高原でチンギス・カンのモンゴル帝国が勃興すると、1211年にウイグル王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンは早い段階でモンゴル帝国に帰順した。チンギス・カンは彼の帰順を歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ、駙馬(キュレゲン)とした。またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。 以後のモンゴル帝国でウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。 モンゴル帝国および元朝では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン (Ūyghristān)」と呼ばれた。
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