天山ウイグル王国領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 03:27 UTC 版)
756年に起こった安史の乱の後、唐の支配力が低下し、840年の回鶻可汗国崩壊後には天山ウイグル王国の支配下となり、しばしば首都となることが多かった。そのため、900年代から1100年代にかけて、「高昌回鶻」として北宋や遼に朝貢している。このころの高昌は「カラ・コージャ」と呼ばれていた。 1125年頃以降、天山ウイグル王国は西遼(カラ・キタイ)の属国となり、1211年にはモンゴル帝国の衛星国となった。1260年代にオゴデイ家のカイドゥとクビライ・カアンとの抗争が始まると、カイドゥはチャガタイ家を併合し、「カイドゥの国」(カイドゥ・ウルス)を形成し、クビライの支配する大元ウルスと対立、天山ウイグル王国は両勢力の抗争の最前線となってしまう。1275年にはカイドゥに臣従したチャガタイ家のドゥアが天山ウイグル王国の首都カラ・コージャを包囲し、時の君主(イディクート)コチカル・テギンは自らの娘を差し出すことで滅亡を免れた(カラ・ホジョの戦い)。しかし、これ以後もカイドゥ・ウルスの攻撃は続き、ウイグル王家はカラ・コージャからクムル(哈密)、クムルから永昌へと東方に移住せざるを得なくなった。
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