回鶻可汗国
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詳細は「回鶻」を参照 回鶻(かいこつ、ウイグル)は初め「回紇」と表記され、突厥の最大構成民族「鉄勒」(てつろく、テュルク)の有力部族であった。7世紀 - 8世紀、鉄勒の中でもモンゴル高原の有力な部族は「トクズ・オグズ(九姓鉄勒)」と呼ばれ、回紇はその中でも最有力部族であり、東突厥可汗国の衰退に乗じ、742年に周辺の葛邏禄(カルルク)部・抜悉蜜(バシュミル)部とともに東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を殺害した。744年、回紇部の骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン、在位:744年 - 747年)と号し、745年には最後の東突厥可汗を殺して東突厥を滅ぼし、モンゴル高原の覇者となった。755年、唐で安史の乱が起こると、皇帝の粛宗は回紇の葛勒可汗(在位:747年 - 759年)に援軍を要請し、757年11月までに唐・回紇連合軍で反乱軍を撃退した。つづく牟羽可汗(在位:759年 - 779年)の代でも反乱軍の残党を駆逐し、回紇の協力があって8年に及ぶ安史の乱を終息させることができた。779年、ソグド人官僚に促されて唐に攻め込もうとした牟羽可汗を宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が殺害し、回紇可汗国内のソグド人官僚、マニ教が弾圧されるという政変が起こった。これによって頓莫賀達干は合骨咄禄毘伽可汗(アルプ・クテュルク・ビルゲ・カガン、在位:779年 - 789年)と号し、唐との関係を強固なものにすると同時に、国号を「回紇」から「回鶻」に改称した。その後もしばらく唐とは良好な関係を保ち、790年代における吐蕃との戦争も両国が連合して対処したが、保義可汗(在位:808年 - 821年)の代において関係がこじれ、一時的に緊張状態となった。その後すぐに唐との関係が修復したものの、回鶻可汗国内で後継争いが相次ぎ、加えて異常気象によって多くの家畜が死んだため国力が衰退し、北の黠戛斯(キルギス)の侵入を招いて回鶻可汗国は崩壊した。
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回鶻(ウイグル)可汗国
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詳細は「回鶻」を参照 744年、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(744年 - 840年)。回鶻(ウイグル)可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。 以後、彼ら回鶻(ウイグル)の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承された。経済面では唐との絹馬貿易や東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げた。 755年に唐で起きた安史の乱では、唐の要請により回鶻(ウイグル)軍が反乱を鎮め、763年に終結することができた。 唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと、回鶻(ウイグル)は西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的に回鶻(ウイグル)軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部が回鶻(ウイグル)の領国となった。 なお懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。 840年、回鶻(ウイグル)可汗国は内乱とキルギス族の侵攻を受けて崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなり、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝となり、甘粛に移った一派はのちの甘州ウイグル王国となり、。東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)に移った一派は天山ウイグル王国となった。
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