堅昆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 01:38 UTC 版)
堅昆(けんこん、拼音:Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。キルギズ(Qïrqïz)の転写とされており、時代によっては鬲昆[1](へきこん、Gékūn)・契骨[2](けいこつ、Qìgŭ)・居勿(きょぶつ、Jūwù)・結骨[3](けつこつ、Jiégŭ)・紇骨[4](こつこつ、Gēgŭ)・紇扢斯(こつこつし、Gēgŭsī)・黠戛斯[5](かつかつし、Xiájiásī)・戛戛斯[6](かつかつし、Jiájiásī)・吉利吉思[7]・乞力吉思[7]・乞児吉思[7]・乞里吉思[7] などと記された。現代のキルギス人(天山キルギズ)と区別するためイェニセイ・キルギズとも呼ばれる。現在のハカス人の祖先に当たる。
- ^ 『史記』
- ^ 『北史』、『周書』、『隋書』
- ^ 『旧唐書』、『新唐書』
- ^ 『旧唐書』、『新唐書』、『魏書』、『北史』、『隋書』
- ^ 『旧唐書』、『新唐書』、『旧五代史』、『新五代史』
- ^ 『新唐書』
- ^ a b c d 『元史』
- ^ 『史記』匈奴列伝
- ^ a b 『漢書』匈奴伝
- ^ a b 『周書』列伝第四十二 異域伝下
- ^ 『旧唐書』列伝第一百四十四上 突厥上、『新唐書』列伝一百四十上 突厥上
- ^ a b c 『新唐書』列伝第一百四十二下 回鶻下
- ^ 「㕎」は「厂+盍」と書く。
- ^ 帳幕(ゲル)のこと。
- ^ 達干(タルカン、Tarqan)とは、テュルク系遊牧国家における官名。
- ^ 「注吾」が姓で、「合素」が名である。「合素」の「合」は「alp:勇猛な」、「素」は「sol:左」を意味するテュルク語である。すなわち、「合素」とは「勇猛で左射を善くする者」の意である。「注吾」の意味は不明。(『騎馬民族史2』p456-457,注176)
- ^ この頃、キルギズやケムケムジュートなどの君主はイナールという称号を帯びていた。
- ^ 『モンゴル帝国史』によると、ケムケムジュートは国名や族名ではなく、地方名であるとされる。
- ^ ドーソン 1968,p90
- ^ 『元朝秘史』では1207年としている。
- ^ ドーソン 1968,p134
- ^ ドーソン 1968,p290
- ^ ドーソン 1971,p13
- ^ 『集史』クビライ・カアン紀ではクビライの弟であるスクトゥの子とされている。『元史』世系表では、トルイの第10子に歳哥都(ソゲドゥ)という人物がおり、その孫にトク・テムルがいる。元朝第12代皇帝トク・テムルとは別人。
- ^ ドーソン 1971,p110-111
- ^ 現在のキルギス人がかぶっている白いフェルト帽(カルパック)と同じか?
- ^ 「輩」は王侯・酋長を意味する官称号「bai」にあたる。(『騎馬民族史2』p454注156)
- ^ 「阿熱」の唐音は「a-net」に近いとみられ、テュルク語の「inäl」の音訳と推定する説がある。13世紀初頭のキルギズ部長の一人にUrūs-inālという名の者があり、このinālと比較するにたる。(『騎馬民族史2』p451注156)
- ^ 原文で「…号密的支它首領居小帳…」とある個所において、白鳥庫吉は「密的支它」を一つの語と見做し、「密的」をサモエード語の「muat,mat:帳の意」に、「支它」をオスチャーク語の「xot,kât:家、帳の意」にあてている。なお、阿熱の本営が置かれたという「青山」は、あるいはタンヌ・ウラ嶺の北峯たるハン・テングリ山にあたると推定されている。(『騎馬民族史2』p451-452注157)
- ^ ウルース・イナールはビディ・ウランの君主号であり、ジェニン・アン・ビディの君主号は写本の欠落により不明。
- ^ ドーソン 1968,p91
- ^ 『元史』地理六西北地附録
- ^ 『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝
- ^ 「烏掲」・「呼偈」とも記され、のちのテュルク系民族オグズ(Oγuz)の祖先とされる。(『騎馬民族史1』p19 注31、P100 注3、p106 注18)
- ^ 『魏略』西戎伝
- ^ この地を黠戛斯の住地とするのは不正確。黠戛斯の本土はイェニセイ上流域である。(『騎馬民族史2』p449注147)
固有名詞の分類
- >> 「堅昆」を含む用語の索引
- 堅昆のページへのリンク