トク・テムル_(ソゲドゥ家)とは? わかりやすく解説

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トク・テムル (ソゲドゥ家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 09:54 UTC 版)

トク・テムルモンゴル語: Toq temür中国語: 脱黒帖木児、? - 1280年)は、チンギス・カンの末子トルイの庶子ソゲドゥの息子で、モンゴル帝国の皇族。シリギら他のトルイ系諸王を誘ってクビライに対して叛乱を起こした、所謂「シリギの乱」の実質的な首謀者。


  1. ^ また、同表は「荊王脱脱木児」の息子に「荊王也速不堅」がいるとするが、『元史』の本紀は「荊王也速也不堅」の方が「荊王脱脱木児」よりも先に「荊王」として活躍していることを記録しており、実際には「荊王イェス・エブゲン(也速也不堅)」が「荊王トク・テムル(脱脱木児)」の父に当たる。『元史』宗室世系表はソゲドゥ家のトク・テムルとコデン家のトク・テムルを同一人物と取り違え、更にその親子関係も間違えるという二重の誤謬を冒している(杉山2004,464頁)
  2. ^ トク・テムルが帝位継承戦争でどちらの派閥に与したかは明記がないが、この頃ソゲドゥは既に亡くなっておりトク・テムルはアリクブケの管轄するモンゴル高原で父の遺領を管理していたと考えられること、また後述するようにクビライの統治に強い不満を抱き「シリギの乱」を起こすに至ったことなどから、アリクブケ派についていたと推測されている(村岡1985,311-312頁)
  3. ^ 「シリギの乱」以前にも、「北部王」がクビライの使者を殺害した事件や、「北方諸王」が叛乱を起こした事件などが記録されている(村岡1985,312-313頁)
  4. ^ 村岡1985,310-313頁
  5. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「至元十二年、従北安王北征。十三年、失列吉叛、遣人誘脅之、牙忽都不従、事王益忠謹……。未幾、失列吉・薬木忽児・脱帖木児等反、以兵攻王。脱帖木児生致牙忽都、使失列吉拘繋之」
  6. ^ この「西北藩王」はかつてカイドゥとその一党を指すものと考えられていたが、村岡倫の研究によって実際には旧アリクブケ派諸王を指すものであると明らかになっている(村岡1985,314-317頁)
  7. ^ 『元史』巻125列伝12高智耀伝,「会西北藩王遣使入朝、謂『本朝旧俗与漢法異、今留漢地、建都邑城郭、儀文制度、遵用漢法、其故何如』」
  8. ^ 村岡1985,317頁
  9. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「伯八、晃合丹氏……至元十二年、親王昔里吉・脱鉄木児叛、奔海都。伯八以聞、且願提兵往討之、未得命、為彼所襲、死焉」
  10. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「至元十四年、叛王脱脱木・失列吉入寇諸部曲見掠先朝大武帳亡焉。土土哈王憤之、誓請決戦」
  11. ^ 『元史』巻118列伝5忽憐伝,「忽憐、尚憲宗女伯牙魯罕公主。後脱黒帖木児叛、世祖命忽憐与失列及等討之、大戦終日、脱黒帖木児敗走、帝嘉之、復令尚憲宗孫女不蘭奚公主」
  12. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「至元十四年、叛王脱脱木・失列吉入寇諸部曲見掠先朝大武帳亡焉。土土哈王憤之、誓請決戦……四月、只児瓦䚟搆乱応昌、脱脱木以兵応之、与我軍遇将決戦。先得其斥候数十、脱脱木懼而引去、遂滅只児瓦䚟」
  13. ^ 『集史』「クビライ・カアン紀」には「突然、ベクレミシュが率いる指揮するカアンの軍勢が到着した。[オゴデイとチャガタイの]諸オルドに、バトゥの諸子とカイドゥの到着は虚言であることが明らかになった」と記されている。なお、早い段階で離脱したためか、「シリギの乱」に参加したオゴデイ・チャガタイ系諸王の名前はオゴデイ系メリク家のトクを除いて記録されていない(村岡1985,319頁)
  14. ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「六月逐其兵於禿兀剌河」
  15. ^ 『元史』巻132列伝19杭忽思伝,「時失列吉叛、詔伯答児領阿速軍一千往征之……復与薬木忽児軍戦于禿剌及斡魯歓之地」
  16. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「[至元]十四年、兀魯兀台・伯顔帥師討叛、失列吉・薬木忽児迎戦、牙忽都潜結赤斤帖木児・禿禿哈乱其陣。失列吉軍乱、因得脱走」
  17. ^ 1277年の一連の戦いについて、『集史』「クビライ・カアン紀」は「トク・テムルとサルバンは、シリギに加わり共に[クビライ・]カアンの諸軍と戦った」と簡単に記すに留まる(村岡1985,321頁)
  18. ^ 『集史』「クビライ・カアン紀」は「トク・テムルとシリギとサルバンは闘争し、バアリン部族の方へ向かい、イルティシュ河の流域で、それぞれ[戦いの]準備に忙しく従事した」と記す(村岡1985,321頁)
  19. ^ 『元史』巻162列伝49劉国傑伝,「劉国傑、字国宝、本女真人也……。十六年、諸王脱脱木反、寇和林。国傑度其衆悉至、営中必虚、選軽騎襲之、獲其衆万計。脱脱木屡戦不利、又残暴、失衆心、衆殺之来降」
  20. ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年春正月]丁卯、諸王札剌忽至自軍中。時皇子北平王以軍鎮阿里麻里之地、以御海都。諸王昔里吉与脱脱木児・薬木忽児・撒里蛮等謀劫皇子北平王以叛、欲与札剌忽結援於海都、海都不従。撒里蛮悔過、執昔里吉等、北平王遣札剌忽以聞」
  21. ^ 『元史』巻193列伝80伯八伝,「脱鉄木児虜其二子八剌・不蘭奚、分置左右、居歳餘、待之頗厚。八剌陰結脱鉄木児近侍也里伯禿、謀報父仇、後為也伯里禿家人泄其謀。八剌知事不成、将家族南奔、脱鉄木児遣騎追之、至一河、八剌馬驚、不能渡、回拒之、射中数人、力窮、兄弟就擒。脱鉄木児責之曰『我待汝厚甚、而汝反為此耶』。八剌曰『汝背叛君上、害我父、掠我親属、我誓欲殺汝、以報君父之讎、今力窮被執、従汝所為』。逼令跪、不屈、以鉄撾砕其膝、終不跪、与弟不蘭奚同被害」


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