トトガク
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トトガク(モンゴル語: Tudγaγ,中国語: 土土哈, 1237年 - 1297年)は、キプチャク部出身で、13世紀末に大元ウルスに仕えキプチャク人軍団の指揮官として活躍した人物。『元史』などの漢文史料では土土哈(tŭtŭhā)、あるいは禿禿哈(tūtūhā)、『集史』などのペルシア語史料ではتوقتاق(tūqtāq)もしくはتوتقاق(tūtqāq)と記される。
- ^ 岡田2010,53/58頁
- ^ 村岡1985,吉野2009など
- ^ ドーソン1971,116/117頁
- ^ 杉山2004,344-345頁
- ^ 村岡2016,92頁、村岡2017,29頁、宮2018,815頁など
- ^ 太田1981,1-2頁
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「中統初元、討阿里卜哥之乱、班都察与其子土土哈皆有功。班都察卒、土土哈領其父事是為句容郡武毅王」
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「至元十四年、叛王脱脱木・失列吉入寇諸部曲見掠先朝大武帳亡焉。土土哈王憤之、誓請決戦……四月、只児瓦䚟搆乱応昌、脱脱木以兵応之、与我軍遇将決戦。先得其斥候数十、脱脱木懼而引去、遂滅只児瓦䚟」
- ^ 村岡1985,320頁
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「六月、逐其兵於禿剌河。八月、又敗之斡歓河、得所亡大帳、還諸部之衆於北平。我師北伐、詔率欽察驍騎千人以従」
- ^ 『元史』巻117列伝14牙忽都伝,「十四年、兀魯兀台・伯顔帥師討叛、失列吉・薬木忽児迎戦、牙忽都潜結赤斤帖木児・禿禿哈乱其陣。失列吉軍乱、因得脱」
- ^ 村岡1985,320頁
- ^ 『元史』では「[至元]十五年、大軍北征、詔率欽察驍騎千人以従」と記すが、『元史』土土哈伝の原史料に当たる「句容郡王世績碑」ではこの記事を至元14年のこととしており、実際には至元14年から軍事行動は始まっていたと見られる(太田1981,2/12頁)
- ^ この「大帳」とはチンギス・カン家の祖先祭祀を行うための「霊廟テント」であったと考えられ、これがトトガクに与えられたために後に固定建築物として「チンギス・ハーン廟」が跡地に建設された。この「チンギス・ハーン廟」は後に現オルドス市のエジェン・ホローに移され、跡地がアウラガ遺跡として残されている(白石2005,11-12頁)。
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「二十四年、諸王乃顔叛於東藩、陰遣使来結也不干・勝剌哈王、獲諜者得其情密以聞。諸朝請召勝剌哈以離之、他日勝剌哈為宴会邀二大将、朶児朶懐将往王曰事不可測、遂不往、勝剌哈計不得行。未幾、有詔召勝剌哈王曰、此東藩之人由東道是其欲也、将不可制言於北安王命之西行。或言、也不干将反者軍吏請奏而図之王曰、不可緩也。身為先駆、引大兵前窮晝夜之力渡禿兀剌河、与也不干戦大敗之。……十一月、征乃顔餘党於哈剌誅兀達海、尽降其衆」
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「二十五年、也只里王為叛王火魯哈孫所攻甚急。五月、王従成宗移師援之、敗諸兀魯灰。還至哈剌温山、夜渡貴列河、敗叛王哈丹之軍、尽得遼左諸部、置東路万戸府以鎮之。也只里有女弟塔倫、遂以妻王。二十六年、海都軍叛金山、抵杭海嶺、皇孫晋王帥兵禦之。敵先拠険、我師不利、王独以其軍陥陣入戦、翼晋王出。明日、追騎大至、伏兵殿之」
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「妻、曰太塔你札只剌真也、曰兀買八里真也、曰嚢加真甕吉剌真也、曰阿八倫甕吉剌真也、曰塔倫也只里王女弟也、皆封句容郡王夫人」
- ^ 『国朝文類』巻26句容郡王世績碑,「子八人、長曰塔察児定遠大将軍・北庭元帥、次曰太不花御位下博児赤、三曰創兀児、四曰別里不花武略将軍欽察親軍千戸、五曰帖木児不花武徳将軍建康廬饒等処哈剌赤戸達魯花赤、六曰歓差武略将軍欽察親軍千戸、七曰岳里帖木児武徳将軍僉武衛親軍都指揮使司兼大都屯田事、八曰断古魯班昭勇大将軍欽察親軍都指揮使」
- 1 トトガクとは
- 2 トトガクの概要
- 3 キプチャク部クルスマン家
- 4 脚注
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