「シリギの乱」における活躍とは? わかりやすく解説

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「シリギの乱」における活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 00:08 UTC 版)

トトガク」の記事における「「シリギの乱」における活躍」の解説

それまでモンゴル帝国の中では新参者として軽視されてきたキプチャク軍団トトガクの名を一躍世に知らしめたのが、至元13年1276年)に始まる「シリギの乱であった。これより先、クビライ帝位継承戦争後も唯一自らに従わなかったオゴデイ家カイドゥに対して自身第3ノムガン総司令とする遠征軍派遣しノムガン軍はカイドゥ討伐のため中央アジアアルマリク駐屯した。ところがノムガン軍に所属していた旧アリク・ブケ派の諸王トク・テムル呼びかけによってアルマリクにて叛乱起こしモンケ息子シリギカアン推戴しノムガン及びジャライル部アントンココチュ遠征軍中枢捕虜とした。 翌至元14年1277年)、シリギ及びトク・テムル率いられ反乱軍モンゴル高原中央部侵攻しケルレン河流域位置するチンギス・カンの大オルド祖宗御大帳)」を掠奪し去って行った事態重く見たクビライトトガク率いキプチャク軍を派遣しモンゴル高原到着したトトガク同年3月に早速敵将トルチヤンをナラン・ボラクの地にて破った。同じ頃、モンゴル高原南部ではコンギラト部のジルワダイシリギの乱呼応して挙兵しコンギラト部の本拠地応昌包囲していた。これを聞いたトク・テムルジルワダイ呼応して敵軍挟撃せんと軍を進めたが、道中トトガクキプチャク軍と遭遇しトトガクによって斥候騎兵数十名を捕らえられてしまったため、トク・テムル戦わずして退却していった。このトトガク活躍によってジルワダイ孤立無援に陥り、別働隊攻撃によってジルワダイの叛乱鎮圧された。 ジルワダイ討伐終えて北上してきたアスト軍を率いバイダル南宋遠征から召還されバヤン率い軍勢トトガク合流し退却するトク・テムル追ってトーラ河越え、更にオルホン河至った所で反乱軍との会戦が行われることになったオルホン河戦いで反乱軍捕虜になっていたヤクドゥ内部から反乱軍撹乱したことによって大元ウルス軍が大勝利収め奪われていた「チンギス・カンの大オルド」を奪還することに成功した。これ以後反乱軍内部分裂によって弱体化し再度攻勢に出ることはなくなる。 至元15年1278年)、大元ウルス軍勢が「シリギの乱鎮圧のため更に北上すると、トトガクキプチャク人精鋭千人率いてこれに従軍したトトガクシリギ追ってアルタイ山脈越え、ジャクルタイ(忽台)を捕虜とし、コンチェク(寛折哥)らを破り敵軍大量の羊馬・輜重鹵獲した。遠征先から帰還したトトガクに対してクビライは自らこれを労い金銀酒器及び銀100両・金9・歳時預宴只孫冠服全・海東白鶻1を下賜したのみならず、「祖宗武帳(チンギス・カンの大オルド)は人臣御しうるものではないが、卿はこれを[叛王から]奪還することに成功した故に今からはこれを卿に授けよう」と述べトトガク奪還した祖宗御大帳」をもトトガク下賜した。

※この「「シリギの乱」における活躍」の解説は、「トトガク」の解説の一部です。
「「シリギの乱」における活躍」を含む「トトガク」の記事については、「トトガク」の概要を参照ください。

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