「シリギの乱」における活躍
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「トトガク」の記事における「「シリギの乱」における活躍」の解説
それまでモンゴル帝国の中では新参者として軽視されてきたキプチャク軍団とトトガクの名を一躍世に知らしめたのが、至元13年(1276年)に始まる「シリギの乱」であった。これより先、クビライは帝位継承戦争後も唯一自らに従わなかったオゴデイ家のカイドゥに対して自身の第3子ノムガンを総司令とする遠征軍を派遣し、ノムガン軍はカイドゥ討伐のため中央アジアのアルマリクに駐屯した。ところがノムガン軍に所属していた旧アリク・ブケ派の諸王はトク・テムルの呼びかけによってアルマリクにて叛乱を起こし、モンケの息子シリギをカアンに推戴し、ノムガン及びジャライル部のアントン、ココチュら遠征軍の中枢を捕虜とした。 翌至元14年(1277年)、シリギ及びトク・テムルに率いられた反乱軍はモンゴル高原中央部に侵攻し、ケルレン河流域に位置する「チンギス・カンの大オルド(祖宗所御大帳)」を掠奪して去って行った。事態を重く見たクビライはトトガク率いるキプチャク軍を派遣し、モンゴル高原に到着したトトガクは同年3月に早速敵将トルチヤンをナラン・ボラクの地にて破った。同じ頃、モンゴル高原南部ではコンギラト部のジルワダイがシリギの乱に呼応して挙兵し、コンギラト部の本拠地応昌を包囲していた。これを聞いたトク・テムルはジルワダイと呼応して敵軍を挟撃せんと軍を進めたが、道中でトトガクのキプチャク軍と遭遇し、トトガクによって斥候の騎兵数十名を捕らえられてしまったため、トク・テムルは戦わずして退却していった。このトトガクの活躍によってジルワダイは孤立無援に陥り、別働隊の攻撃によってジルワダイの叛乱は鎮圧された。 ジルワダイ討伐を終えて北上してきたアスト軍を率いるバイダルや南宋遠征から召還されたバヤン率いる軍勢とトトガクは合流し、退却するトク・テムルを追ってトーラ河を越え、更にオルホン河に至った所で反乱軍との会戦が行われることになった。オルホン河の戦いでは反乱軍の捕虜になっていたヤクドゥが内部から反乱軍を撹乱したことによって大元ウルス軍が大勝利を収め、奪われていた「チンギス・カンの大オルド」を奪還することに成功した。これ以後、反乱軍は内部分裂によって弱体化し再度攻勢に出ることはなくなる。 至元15年(1278年)、大元ウルスの軍勢が「シリギの乱」鎮圧のため更に北上すると、トトガクもキプチャク人の精鋭千人を率いてこれに従軍した。トトガクはシリギを追ってアルタイ山脈を越え、ジャクルタイ(札忽台)を捕虜とし、コンチェク(寛折哥)らを破り、敵軍の大量の羊馬・輜重を鹵獲した。遠征先から帰還したトトガクに対してクビライは自らこれを労い、金銀酒器及び銀100両・金幣9・歳時預宴只孫冠服全・海東白鶻1を下賜したのみならず、「祖宗武帳(チンギス・カンの大オルド)は人臣が御しうるものではないが、卿はこれを[叛王から]奪還することに成功した。故に今からはこれを卿に授けよう」と述べ、トトガクが奪還した「祖宗所御大帳」をもトトガクに下賜した。
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