ジルワダイの叛乱とは? わかりやすく解説

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ジルワダイの叛乱(応昌の戦い)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 15:40 UTC 版)

シリギの乱」の記事における「ジルワダイの叛乱(応昌戦い)」の解説

ジルワダイ」も参照 モンゴル高原東南部には「左手五投下」と呼ばれるジャライル部コンギラト部・イキレス部・ウルウト部・マングトからなる有力集団チンギス・カンの時代から勢力圏としていた。この中でコンギラト部は代々チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族であり、クビライの治世が始まると応昌上都開平府模した都市建設していた。「シリギの乱」が勃発した時、コンギラト部ではデイ・セチェン息子アルチ・ノヤン息子ナチン・キュレゲンの息子オロチン当主の座にあった。「張氏先塋碑」によると、ジルワダイオロチンの弟であったという。 至元14年1277年)、かねてよりクビライ政権に不満を抱いていたオロチンの弟のジルワダイは「シリギの乱勃発叛乱軍の東進聞くとこれに呼応して挙兵した。ジルワダイは兄で現当主のオロチン捕虜としてコンギラト部の根拠地応昌包囲し、更に北上してシリギ軍と合流しようと企んだ。これに対しクビライコンギラトともに「左手五投下」を構成するウルウト当主トゴンマングト当主ボロカン新興のキプチャク・アスト兵を率いるセチェン・バートル、カングス、ウワズ、シクドゥルバイダルオイラト人ベクレミシュ指揮にあった)らがシリギ及びジルワダイ討伐派遣され、そして耶律元臣や洪茶丘といった人物もこれに従軍したジルワダイ合流しようとしていたトク・テムル先行してモンゴル高原到着していたキプチャク軍を率いトトガク進路阻まれジルワダイの下に到着することができなかった。シリギ軍と合流できなかったジルワダイ単独でカラ・カドゥ(懐剌合都/懐哈都)の地において大元ウルス軍勢戦い敗北した。この時の戦いでは、ジャライル部出身トゴン流れ矢を受けながら戦い抜くという功績挙げ、後にクビライより労われている。 敗れたジルワダイ逃れた耶律元臣がこれを追跡し児濼において捕虜とされた。耶律元臣はこの功績賞されこの後応昌駐屯することになったが、他の将軍ここから更に北上しシリギトク・テムル軍の討伐参加していった。

※この「ジルワダイの叛乱(応昌の戦い)」の解説は、「シリギの乱」の解説の一部です。
「ジルワダイの叛乱(応昌の戦い)」を含む「シリギの乱」の記事については、「シリギの乱」の概要を参照ください。

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