ジルワダイの叛乱(応昌の戦い)
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「シリギの乱」の記事における「ジルワダイの叛乱(応昌の戦い)」の解説
「ジルワダイ」も参照 モンゴル高原東南部には「左手の五投下」と呼ばれる、ジャライル部・コンギラト部・イキレス部・ウルウト部・マングト部からなる有力集団がチンギス・カンの時代から勢力圏としていた。この中でもコンギラト部は代々チンギス・カン家の姻族として繁栄してきた一族であり、クビライの治世が始まると応昌に上都開平府を模した都市を建設していた。「シリギの乱」が勃発した時、コンギラト部ではデイ・セチェンの息子アルチ・ノヤンの息子ナチン・キュレゲンの息子オロチンが当主の座にあった。「張氏先塋碑」によると、ジルワダイはオロチンの弟であったという。 至元14年(1277年)、かねてよりクビライ政権に不満を抱いていたオロチンの弟のジルワダイは「シリギの乱」勃発と叛乱軍の東進を聞くとこれに呼応して挙兵した。ジルワダイは兄で現当主のオロチンを捕虜としてコンギラト部の根拠地応昌を包囲し、更に北上してシリギ軍と合流しようと企んだ。これに対し、クビライはコンギラトともに「左手の五投下」を構成するウルウト部当主トゴンとマングト部当主ボロカン、新興のキプチャク・アスト兵を率いるセチェン・バートル、カングス、ウワズ、シクドゥル、バイダル(オイラト人のベクレミシュの指揮下にあった)らがシリギ及びジルワダイの討伐に派遣され、そして耶律元臣や洪茶丘といった人物もこれに従軍した。 ジルワダイと合流しようとしていたトク・テムルは先行してモンゴル高原に到着していたキプチャク軍を率いるトトガクに進路を阻まれ、ジルワダイの下に到着することができなかった。シリギ軍と合流できなかったジルワダイは単独でカラ・カドゥ(懐剌合都/懐魯哈都)の地において大元ウルスの軍勢と戦い、敗北した。この時の戦いでは、ジャライル部出身のトゴンが流れ矢を受けながら戦い抜くという功績を挙げ、後にクビライより労われている。 敗れたジルワダイは逃れたが耶律元臣がこれを追跡し、魚児濼において捕虜とされた。耶律元臣はこの功績を賞され、この後も応昌に駐屯することになったが、他の将軍はここから更に北上し、シリギ、トク・テムル軍の討伐に参加していった。
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