アルチ (コンギラト部)
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アルチ・ノヤン(モンゴル語: Alči Noyan,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたコンギラト部出身の千人隊長の一人。
- ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏、世居朔漠……女曰孛児台、太祖光献翼聖皇后。子曰按陳、従太祖征伐、凡三十二戦、平西夏、断潼関道、取回紇尋斯干城、皆与有功」
- ^ 志茂2013,724-725/732-734頁
- ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「耶律留哥、契丹人……太祖命按陳那延・渾都古行軍至遼、遇之、問所従来、留哥対曰『我契丹軍也、往附大国、道阻馬疲、故逗遛於此』。按陳曰『我奉旨討女真、適与爾会、庸非天乎。然爾欲效順。何以為信』。留哥乃率所部会按陳於金山、刑白馬・白牛、登高北望、折矢以盟。按陳曰『吾還奏、当以征遼之責属爾』。……帝命按陳・孛都歓・阿魯都罕引千騎会留哥、与金兵対陣於迪吉脳児……帝召按陳還、而以可特哥副留哥屯其地」
- ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」
- ^ ただし、あくまで漢人の側がアルチの地位をそのように表現したというだけのことで、実際に尚書省が設置されていたわけではない。なお、後に耶律楚材が「中書令」と称されているが、これは他称で、しかも耶律楚材の職権はごく限定されたものであったため、「征服地の統治機関の長」という意味ではアルチの「尚書令」という称号の方が実態にあったものであると考えられている(杉山1996,303-315頁)
- ^ 『蒙韃備録』「諸将功臣……又其次曰按赤那延、見封尚書令、成吉思正后之弟、部下亦有騎軍十余万、所統之人頗循法、韃人自言、随国王者皆悪、随尚書令者皆善也」
- ^ 『元史』巻149列伝36劉伯林伝,「黒馬名嶷、字孟方……甲申、従按赤那延攻破東平・大名」
- ^ 『元史』巻151列伝38杜豊伝,「皇舅按赤那延授兵馬都提控……丙戌、従按赤那延攻益都、金守将突囲出」
- ^ 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「歳丁亥、賜号国舅按陳那顔。壬辰、賜銀印、封河西王、以統其国族。丁酉、賜銭二十万緡、有旨『弘吉剌氏生女世以為後、生男世尚公主、毎歳四時孟月、聴読所賜旨、世世不絶』。又賜所俘獲軍民五千二百、仍授万戸以領之。按陳薨、葬官人山。元貞元年二月、追封済寧王、諡忠武。妻哈真、追封済寧王妃」
- ^ 例えば、「丑漢(チュカン)」なる人物は「アルチ・ノヤンの次子必哥(ビルゲ)之裔孫(有名丑漢者、按陳次子必哥之裔孫)」としか記されず、丑漢の父親の名前は全く分からない
- 1 アルチ (コンギラト部)とは
- 2 アルチ (コンギラト部)の概要
- 3 コンギラト部デイ・セチェン家
- 4 脚注
- アルチ・ノヤンのページへのリンク