オラル_(オルクヌウト部)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > オラル_(オルクヌウト部)の意味・解説 

オラル (オルクヌウト部)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 09:27 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

オラル・キュレゲン(モンゴル語: Olar Küregen,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたオルクヌウト部出身の千人隊長の一人。

元朝秘史』などの漢文史料では斡剌児古咧堅(wòlàérgŭliējiān)、『集史』などのペルシア語史料ではاولار كوركان(Ūlār Kūrūān)と記される。

概要

『集史』「コンギラト部族志」によると、オラルはコンギラトから派生したオルクヌウト部族の出身で、チンギス・カンの生母ホエルンの兄弟であったという。ホエルンがイェスゲイに嫁いだのを皮切りに、この一族は代々チンギス・カンの一族と姻戚関係を結ぶようになる[1]

オラルがどのような経緯でチンギス・カンに仕えるようになったかは不明であるが、1206年にモンゴル帝国が建国されると帝国の幹部層たる千人隊長(ミンガン)に任ぜられた。『元朝秘史』の功臣表では79位に列せられている[2]

子孫

オラルにはタイチュという息子がおり、チンギス・カンの晩年には父の千人隊を継承して右翼17番目の千人隊長に数えられている。タイチュはチンギス・カンの娘アルタルカンを娶り、キュレゲン(駙馬/婿)を称した[3]

タイチュの後を継いだのは息子のジュジンバイ(ウジュジャガイとも)で、彼もまた第4代皇帝モンケの娘を娶った。ジュジンバイが娶ったのはモンケとオグルトトミシュとの間に生まれたシーリーンという娘であったが、シーリーンは早くに亡くなったためその妹ビチカを新たに娶っている[4]

タイチュ(塔出)、ジュジンバイ(朮真伯)の婚姻については『元史』巻109表4諸公主表にも記されているが、そこでは結婚相手(公主)の名前が塗りつぶされて不明となっている。諸公主表は続けて「ジュジンバイの子ベクレ(別合剌)」、「ベクレの子タバク(塔八)」もチンギス・カン家の女性(公主)を娶ったことが知るされており、姻族としてのオラル家の地位は後代まで存続していたことが確認される[5]

オルクヌウト部系図

脚注

  1. ^ 志茂2013,725-726頁
  2. ^ 村上1972,343/388頁
  3. ^ 志茂2013,754-755頁
  4. ^ 志茂2013,756-757頁
  5. ^ 『元史』巻109表4諸公主表,「□□公主位。□□□公主、適塔出駙馬。□□公主、適塔出子朮真伯駙馬。□□公主、適朮真伯子別合剌駙馬。□□公主、適別合剌子塔八駙馬」

参考文献

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オラル_(オルクヌウト部)」の関連用語

オラル_(オルクヌウト部)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オラル_(オルクヌウト部)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのオラル (オルクヌウト部) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS