ブトゥ・キュレゲンとは? わかりやすく解説

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ブトゥ・キュレゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/03 03:02 UTC 版)

ブトゥ・キュレゲンモンゴル語: Butu/Буту хүргэнi,中国語: 孛禿,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたイキレス部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、ブトゥの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「イキレス駙馬王家」として尊重された。『元史』などの漢文史料では孛禿/不図/不禿古堅/豹突駙馬/撥都駙馬、『集史』などのペルシア語史料ではبوتو گورکان(būtū gūrkān)と記される。


  1. ^ 志茂2013,727頁
  2. ^ 村上1972,222-223頁
  3. ^ 『元史』巻118孛禿伝「太祖嘗潜遣朮児徹丹出使、至也児古納河。孛禿知其為帝所遣、値日暮、因留止宿、殺羊以享之。朮児徹丹馬疲乏、復仮以良馬。及還、孛禿待之有加。朮児徹丹具以白帝、帝大喜、許妻以皇妹帖木倫。孛禿宗族乃遣也不堅歹等詣太祖、因致言曰『臣聞威徳所加、若雲開見日即春風解凍、喜不自勝』。帝問『孛禿孳畜幾何』。也不堅歹対曰『有馬三十匹、請以馬之半為聘礼』。帝怒曰『婚姻而論財、殆若商賈矣。昔人有言、同心実難、朕方欲取天下、汝亦乞列思之民、従孛禿效忠於我可也、何以財為』。竟以皇妹妻之。」
  4. ^ 『元史』巻118孛禿伝「既而答赤剌歹答木哈・脱也等以兵三万入寇。孛禿聞之、遣波欒歹・磨里禿禿来告、乃与哈剌里・答剌兀・塔児哈泥等討脱也等、掠其輜重、降其民。乃蛮叛、帝召孛禿以兵至、大戦敗之」
  5. ^ 『元史』巻153列伝40王檝伝,「時河間・清・滄復叛、帝命檝討之、復命駙馬孛禿分蒙古軍及乣・漢軍三千属檝、遂復河間、得軍民万口。孛禿悪其反復欲尽誅之、檝解之曰『駆群羊使東西者、牧人也、羊何知哉。殲其渠魁足矣。釈此輩、遷之近県、強者使従軍、弱者使為農、此天之所以畀我也、何以殺為』。孛禿曰『汝能保此輩不復反耶』。檝曰『可』。即移文保任之、倶得全活」
  6. ^ 『元史』巻118孛禿伝「従太師国王木華黎略地遼東・西、以功封冠懿二州。従征西夏、病薨。贈推忠宣力佐命功臣・太師・開府儀同三司・駙馬都尉・上柱国、進封昌王、諡忠武。子鎖児哈襲爵」


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