アンチュルとは? わかりやすく解説

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アンチュル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 06:10 UTC 版)

アンチュルモンゴル語: Ančul、? - 1263年)は、モンゴル帝国に仕えた人物の一人で、オングト部の出身。『元史』には按竺邇(ànzhúĕr)と按主奴(ànzhŭnú)という2通りの表記があるが、この名前はラドロフのトルコ語方言辞典に見える「賢明」を意味するカザフ語"Aŋčïl"と同語源の単語と考えられている[1]。また、『元朝秘史』に千人隊長の一人として記されるアジナイと同一人物とする説もあるが、1211年以降にモンゴルに帰順したアンチュルが1206年に任命された千人隊長に数えられることはありえないとして現在では否定的な見解が主流である[2]


  1. ^ 松田1992,81頁
  2. ^ 松田1992,69頁
  3. ^ 『元史』巻180趙世延伝ではコンギラト部族出身とも記されるが、アンチュルの出身地雲中がオングト部族の勢力圏であることや、同列伝の別の箇所で「帝曰『世延誠可用、然雍古氏非漢人、其署宜居右』」とあることなどから、やはりオングト部族出身とするのが正しいと考えられている(松田1992,68-69頁)。
  4. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「按竺邇、雍古氏。其先居雲中塞上、父䵣公、為金群牧使。歳辛未、駆所牧馬来帰太祖、終其官。按竺邇幼鞠於外祖朮要甲家、訛言為趙家、因姓趙氏」
  5. ^ 『集史』などの記述によってチャガタイには4つの千人隊が分与されたことが知られているが、アンチュルの千人隊もその一つではないかとする説がある。しかし、松田考一はチャガタイへの分与は1207年-1211年頃になされたものであって、1211年以降にモンゴルに仕えるようになったアンチュルの千人隊をその一つに数えることはできないと指摘している(松田 1992,69-70頁)。
  6. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「按竺邇、雍古氏。其先居雲中塞上、父䵣公、為金群牧使。歳辛未、駆所牧馬来帰太祖、終其官。按竺邇幼鞠於外祖朮要甲家、訛言為趙家、因姓趙氏。年十四、隷皇子察合台部。嘗従大猟、射獲数麋、有二虎突出、射之皆死。由是以善射名、皇子深器愛之。甲戌、太祖西征尋思干・阿里麻里等国、以功為千戸。丁亥、従征積石州、先登、抜其城。囲河州、斬首四十級。破臨洮、攻徳順、斬首百余級。攻鞏昌、駐兵秦州」
  7. ^ ただし、他のタンマチは出自は高くないがケシク(親衛隊)出身でカアンに忠誠心の高い者が選抜されていたのに対して、チャガタイ家所属の指揮官であったアンチュルの存在は特異であった(松田1992,70-71頁)。
  8. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「太宗即位、尊察合台為皇兄、以按竺邇為元帥。戊子、鎮刪丹州、自敦煌置駅抵玉関、通西域、従定関隴」
  9. ^ 本来、ジャムチの設置はオゴデイ時期に始められたと考えられているが、近年の研究ではオゴデイ即位以前からジャムチの設置は始まっていたことが指摘されている(松田1992,71頁)。
  10. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「辛卯、従囲鳳翔、按竺邇分兵攻西南隅、城上礌石乱下、選死士先登、抜其城、斬金将劉興哥。分兵攻西和州、宋将強俊領衆数万、堅壁清野、以老我師。按竺邇率死士罵城下、挑戦。俊怒、悉衆出陣、按竺邇佯走、俊追之、因以奇兵奪其城。伏兵要其帰、転戦数十里、斬首数千級、擒俊。余衆退保仇池、進撃抜之、従抜平涼・慶陽・邠・原・寧皆降。涇州復叛、殺守将郭元恕、衆議屠之、按竺邇但誅首悪。師還原州、降民棄老幼、夜亡走。衆曰『此必反也、宜誅之以警其余』。按竺邇曰『此輩懼吾駆之北徙耳』。遣人諭之曰『汝等若走、以軍法治罪、父母妻子並誅矣。汝帰、保無他。明年草青、具牛酒迎師於此州』。民皆復帰。豪民陳苟集数千人潜新寨諸洞、衆議以火攻之。按竺邇曰『招諭不出、攻之未晩』。遂偕数騎抵寨、縦馬解弓矢、召苟遙語、折矢与為誓。苟即相呼羅拜、謝更生之恩、皆降」
  11. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「甲午、金亡。初、金将郭斌自鳳翔突囲出、保金・蘭・定・会四州。至是命按竺邇往取之、囲斌於会州。食尽将走、敗之於城門。兵入城巷戦、死傷甚衆。斌手剣駆其妻子聚一室、焚之。已而自投火中。有女奴自火中抱児出、泣授人曰『将軍尽忠、忍使絶嗣、此其児也、幸哀而収之』。言畢、復赴火死。按竺邇聞之惻然、命保其孤。遂定四州」
  12. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「金人守潼関、攻之、戦於扇車回、不克。睿宗分兵由山南入金境、按竺邇為先鋒、趣散関。宋人已焼絶桟道、復由両当県出魚関、軍沔州。宋制置使桂如淵守興元。按竺邇假道於如淵曰『宋讎金久矣、何不従我兵鋒、一洗国恥。今欲假道南鄭、由金・洋達唐・鄧、会大兵以滅金、豈独為吾之利。亦宋之利也』。如淵度我軍圧境、勢不徒還、遂遣人導我師由武休関東抵鄧州、西破小関。金人大駭、謂我軍自天而下。其平章完顔合達・枢密使移剌蒲阿帥十七都尉、兵数十万、相拒於鄧。我師不与戦、直趣鈞州、与親王按赤台等兵合、陳三峰山下。会天大雪、金兵成列。按竺邇先率所部精兵迎撃於前、諸軍乗之、金師敗績。癸巳、金主奔蔡。十二月、従囲蔡」
  13. ^ 松田1992,72頁
  14. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「金将汪世顕守鞏州、皇子闊端囲之、未下。遣按竺邇等往招之、世顕率衆来降。皇兄嘉其材勇、賞賚甚厚、賜名抜都、拜征行大元帥」
  15. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丙申、大軍伐蜀、皇子出大散関、分兵令宗王穆直等出陰平郡、期会於成都。按竺邇領炮手兵為先鋒、破宕昌、残階州。攻文州、守将劉禄、数月不下、諜知城中無井、乃奪其汲道、率勇士梯城先登、殺守陴者数十人、遂抜其城、禄死之。因招来吐蕃酋長勘陁孟迦等十族、皆賜以銀符。略定龍州。遂与大散軍合、進克成都。師還、而成都復叛」
  16. ^ 訳文は松田 1992,73頁より引用
  17. ^ ただし、南宋に対して蒙古・漢軍混成軍=タンマチが駐屯して相対するという体制は河南地方でも実施されており、アンチュル独自の発案ではなく、モンゴル帝国全体の対南宋戦略の一環として定められたものであると考えられている(松田1992,75-77頁)。
  18. ^ 松田1992,75頁
  19. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「丁酉、按竺邇言於宗王曰『隴州県方平、人心猶貳、西漢陽当隴蜀之衝、宋及吐蕃利於入寇、宜得良将以鎮之』。宗王曰『安反側、制寇賊、此上策也、然無以易汝』。遂分蒙古千戸五人、隷麾下以往。按竺邇命侯和尚南戍沔州之石門、朮魯西戍階州之両水、謹斥候、厳巡邏、西南諸州不敢犯之」
  20. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「戊戌、従元帥塔海率諸翼兵伐蜀、克隆慶。己亥、攻重慶。庚子、図万州。宋人将舟師数百艘逆流迎戦。按竺邇順流率勁兵、乗巨筏、浮革舟於其間、弓弩両射、宋人不能敵、敗諸夔門。辛丑、伐西川、破二十余城。成都守将田顕開北門以納師。宋制置使陳隆之出奔、追獲之、縛至漢州、令誘降守将王夔。夔不降、進兵攻之。夔夜駆火牛、突囲出奔、遂斬隆之。壬寅、会大軍破遂寧・瀘・叙等州。癸卯、破資州」
  21. ^ 松田1992,77頁
  22. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「庚戌、按竺邇安輯涇・邠二州。宋制置使余玠攻興元、文州降将王徳新乗隙自階州叛、執扈・牛二鎮将、領衆千餘走江油。憲宗召按竺邇還旧鎮。按竺邇遣将直搗江油、奪扈・牛以帰」
  23. ^ 松田1992,80頁
  24. ^ 松田1992,80-81頁
  25. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「中統元年、世祖即位、親王有異謀者、其将阿藍答児・渾都海図拠関隴。時按竺邇以老、委軍於其子。帝遣宗王哈丹・哈必赤・阿曷馬西討。按竺邇曰『今内難方殷、浸乱関隴、豈臣子安臥之時耶。吾雖老、尚能破賊』。遂引兵出刪丹之耀碑谷、従阿曷馬、与之合戦。会大風、晝晦、戦至晡、大敗之、斬馘無算。按竺邇与総帥汪良臣獲阿藍答児・渾都海等。捷聞、帝錫璽書褒美、賜弓矢錦衣。四年、卒、年六十九。延祐元年、贈推忠佐運功臣・太保・儀同三司・上柱国、封秦国公、諡武宣」


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