南宋との戦いとは? わかりやすく解説

南宋との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:28 UTC 版)

アンチュル」の記事における「南宋との戦い」の解説

1236年丙申)、オゴデイ三男クチュ総司令とする南宋遠征が始まると、アンチュルは宗王モチ・イェベ指揮下に入って四川方面侵攻することになったアンチュル砲兵先鋒として宕昌攻略した文州攻めでは守将の劉禄が奮戦して数カ月渡って城を落とすことができなかったが、アンチュル城中井戸がないことを探り当て上で宋軍の糧道絶ち勇士率いて城壁を登って守兵数十人を殺し遂に文州攻略したまた、この頃吐蕃僧長勘陁孟迦らを招聘して銀符を与えたアンチュル龍州攻略すると、四川方面諸軍再結集して要衝成都攻撃し遂にこれを陥落させた。しかし、モンゴル軍一度引き上げた後、成都は再びモンゴル背いて南宋帰属している。 1237年丁酉)、アンチュルモチ・イェベに「隴地方の州県はすでに平定されましたが、人心はなお背く気持ちあります。西の漢陽は隴と蜀を結ぶ要衝です。南宋チベット侵入するのに便利なところです。優秀な武将得て配置してこの地を鎮守すべきです」と献策した。これに対しモチ・イェベは「謀反気持ち抑え侵入する敵を制することは良策である。しかし、汝アンチュル以外に替わるものはいない」と述べて千人隊長5名を分けてその地に派遣することとした。また、この頃新たな駐屯地として漢陽西和州)・礼店(礼県)を選び、これ以後陝西地方には鞏昌の汪氏、秦州馬氏、そして礼店の趙氏アンチュル一族)というオングト系の3勢力連なることとなった1238年戊戌)にはアンチュルらかつてモチ・イェベ配下にあった指揮官たちはオゴデイによって任命され元帥タガイの下に転属して四川方面侵攻し隆慶にて勝利した。さらに1239年己亥)には重慶攻め1240年庚子)には万州攻囲した。宋軍は軍船100艘を率いて攻めてきたが、アンチュル精鋭率いて巨大な筏に乗り、敵の間をくぐり抜けて弩・弓による攻撃をしかけ、遂に南宋軍を破った1241年辛丑)には西川地区侵攻し20余り陥落させた。

※この「南宋との戦い」の解説は、「アンチュル」の解説の一部です。
「南宋との戦い」を含む「アンチュル」の記事については、「アンチュル」の概要を参照ください。

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