南宋との戦い
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1236年(丙申)、オゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋遠征が始まると、アンチュルは宗王モチ・イェベの指揮下に入って四川方面に侵攻することになった。アンチュルは砲兵を先鋒として宕昌を攻略した。文州攻めでは守将の劉禄が奮戦して数カ月に渡って城を落とすことができなかったが、アンチュルは城中に井戸がないことを探り当てた上で宋軍の糧道を絶ち、勇士を率いて城壁を登って守兵数十人を殺し、遂に文州を攻略した。また、この頃吐蕃の僧長勘陁孟迦らを招聘して銀符を与えた。アンチュルが龍州を攻略すると、四川方面の諸軍は再結集して要衝の成都を攻撃し、遂にこれを陥落させた。しかし、モンゴル軍が一度引き上げた後、成都は再びモンゴルに背いて南宋に帰属している。 1237年(丁酉)、アンチュルはモチ・イェベに「隴地方の州県はすでに平定されましたが、人心はなお背く気持ちがあります。西の漢陽は隴と蜀を結ぶ要衝です。南宋やチベットが侵入するのに便利なところです。優秀な武将を得て、配置してこの地を鎮守すべきです」と献策した。これに対し、モチ・イェベは「謀反の気持ちを抑え、侵入する敵を制することは良策である。しかし、汝アンチュル以外に替わるものはいない」と述べて、千人隊長5名を分けてその地に派遣することとした。また、この頃に新たな駐屯地として漢陽(西和州)・礼店(礼県)を選び、これ以後陝西地方には鞏昌の汪氏、秦州の馬氏、そして礼店の趙氏(アンチュル一族)というオングト系の3勢力が連なることとなった。 1238年(戊戌)にはアンチュルらかつてモチ・イェベの配下にあった指揮官たちはオゴデイによって任命された元帥タガイの下に転属して四川方面に侵攻し、隆慶にて勝利した。さらに1239年(己亥)には重慶を攻め、1240年(庚子)には万州を攻囲した。宋軍は軍船数100艘を率いて攻めてきたが、アンチュルは精鋭を率いて巨大な筏に乗り、敵の間をくぐり抜けて弩・弓による攻撃をしかけ、遂に南宋軍を破った。1241年(辛丑)には西川地区に侵攻し、20城余りを陥落させた。
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