南宋時代
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宋代は北方を金代に占領され、南渡することになった。この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。
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南宋時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 01:30 UTC 版)
南宋では右承務郎・江陰軍籤判に任ぜられたのを皮切りに建康通判、滁州知州、提点江西刑獄、湖北転運副使、湖南安撫使、江西安撫使などの要職を務め、地方官として在任中は富国強兵を推進し金征伐の準備をすすめた。しかしこの積極的な政策が朝廷内部の不満を引き起こし官を罷免され、20年にわたり信州上饒県で隠棲生活を強いられた。晩年に韓侂冑に起用されるが、これも間もなく罷免され、開禧3年(1207年)に死去した。
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