南宋遠征
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マチャの息子のナンギャダイは幼い頃から父に従って戦場を経験し、長じて都元帥に任じられた。大元ウルスによる南宋侵攻が始まると、ナンギャダイはアジュの率いる軍団に属して襄陽包囲に加わり、襄陽が陥落すると漢軍千戸に住じられた。襄陽の陥落後はバヤンを総指令とする本格的な南宋領侵攻が始まり、ナンギャダイもこれに加わって風波湖の戦いでは敵軍を打ち破る功績を挙げた。その後、軍を2つに分けてアジュ率いる北軍が漢陽を、バヤン率いる南軍が鄂州をそれぞれ攻めると、ナンギャダイは別動隊を率いて南宋水軍の軍船3000艘を壊滅させたため、授軍の望みを絶たれた両城は遂に投降したという。バヤン軍が安慶に駐屯すると、丞相の賈似道が南宋最後の防衛線として大軍を率いて長江を攻めあがってきたが、賈似道は決戦を避けるべく講和の使者を派遣した。使者の対応はナンギャダイが行ったがバヤンは講和案を一蹴し、丁家洲の戦いで賈似道軍を破った。賈似道との講和交渉を受け持ったナンギャダイは続けて南宋の首都の臨安に降伏勧告を行う使者にも選ばれ、追い詰められたことを覚った南宋朝廷は玉璽を奉じてナンギャダイに投降の意を告げた。バヤンは南宋から得た玉璽をそのままクビライに献上するよう命じ、南宋遠征における功績を賞してナンギャダイは懐遠大将軍・安撫司ダルガチに任じられた。
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南宋遠征
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安南から北上して南宋を攻め、湖南方面から首都臨安に迫る勢いであった。同時にモンケが兄弟やその他の王族諸侯たちともに本軍を率いて四川に入り、戦線に復帰したクビライはタガチャルとともに中都燕京から開封へ南下し、鄂州を攻撃する計画であったという。1259年8月18日、モンケが合州(現在の重慶市)の包囲中に釣魚山で陣没すると、雲南のモンケ本軍は北に向かって撤収を開始した。 ウリヤンカダイの右翼軍は南方に孤立する形になり、退路を求めて広西の桂林・湖南・江西の各都市を攻撃しながらも華南方面をさまようことになった。9月下旬にクビライは長江北岸まで来ており、ここでモンケの訃報に接した(半月程前の汝南駐留中に既に非公式的ながらクビライ陣営にも訃報が届いていたようである)が、ウリヤンカダイの軍を回収するためそのまま長江を渡って対岸の鄂州を包囲した。3カ月クビライはこの地に留まり、南宋側と賈似道率いる部隊と停戦交渉を行った。 この最中にウリヤンカダイ軍はようやくクビライ側と連絡が取れるようになったため、クビライはモンケの名代として南宋遠征に加わった全軍に撤退命令を下し、ウリヤンカダイ軍と合流するため副官で正妃チャブイの甥にあたるバアトルを殿軍として残し、12月23日に翌年のクリルタイ開催を見越し鄂州を発ち、長江を渡って本拠地である北の上都開平府へ急行した。その後ウリヤンカダイ軍とバアトル率いる軍と合流したが、1260年3月に停戦の取り決め通りに両軍が船橋を掛けられた長江を渡ろうとしたところ、賈似道の軍から攻撃を受けた。損害そのものは軽微だった。
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