南宋遠征とは? わかりやすく解説

南宋遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)

ナンギャダイ」の記事における「南宋遠征」の解説

マチャ息子ナンギャダイ幼い頃から父に従って戦場経験し長じて元帥任じられた。大元ウルスによる南宋侵攻が始まると、ナンギャダイアジュ率い軍団属して襄陽包囲加わり襄陽陥落すると漢軍千戸に住じられた。襄陽陥落後はバヤンを総指令とする本格的な南宋侵攻始まりナンギャダイもこれに加わって風波湖の戦いで敵軍打ち破る功績挙げたその後、軍を2つ分けてアジュ率い北軍漢陽を、バヤン率い南軍鄂州それぞれ攻めると、ナンギャダイ別動隊率いて南宋水軍軍船3000艘を壊滅させたため、授軍の望み絶たれ両城遂に投降したという。バヤン軍が安慶駐屯すると、丞相賈似道南宋最後防衛線として大軍率いて長江攻めあがってきたが、賈似道決戦避けるべく講和使者派遣した使者の対応はナンギャダイが行ったがバヤン講和案を一蹴し丁家洲の戦い賈似道軍を破った賈似道との講和交渉受け持ったナンギャダイ続けて南宋首都臨安降伏勧告を行う使者にも選ばれ追い詰められたことを覚った南宋朝廷玉璽奉じてナンギャダイ投降の意を告げたバヤン南宋から得た玉璽そのままクビライ献上するよう命じ、南宋遠征における功績賞してナンギャダイは懐遠大将軍・安撫司ダルガチ任じられた。

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南宋遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 10:02 UTC 版)

ウリヤンカダイ」の記事における「南宋遠征」の解説

安南から北上して南宋攻め湖南方面から首都臨安に迫る勢いであった。同時にモンケ兄弟その他の王族諸侯たちともに本軍率いて四川入り戦線復帰したクビライタガチャルとともに中都燕京から開封南下し鄂州攻撃する計画であったという。1259年8月18日モンケ合州現在の重慶市)の包囲中に釣魚山で陣没すると、雲南モンケ本軍は北に向かって撤収開始したウリヤンカダイ右翼軍は南方孤立する形になり、退路求めて広西桂林湖南江西の各都市攻撃しながらも華南方面さまようことになった9月下旬クビライ長江北岸まで来ており、ここでモンケ訃報接した半月程前の汝南駐留中に既に非公式的ながらクビライ陣営にも訃報届いていたようである)が、ウリヤンカダイの軍を回収するためそのまま長江渡って対岸鄂州包囲した。3カ月クビライはこの地に留まり南宋側と賈似道率い部隊停戦交渉行った。 この最中ウリヤンカダイ軍はようやくクビライ側と連絡取れようになったため、クビライモンケ名代として南宋遠征に加わった全軍撤退命令下しウリヤンカダイ軍と合流するため副官正妃チャブイの甥にあたるバアトル殿軍として残し12月23日翌年クリルタイ開催見越し鄂州発ち長江渡って本拠地である北の上開平府急行したその後ウリヤンカダイ軍とバアトル率いる軍と合流したが、1260年3月停戦取り決め通り両軍船橋掛けられ長江渡ろうとしたところ、賈似道の軍から攻撃受けた損害そのもの軽微だった。

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