第4代皇帝モンケの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:52 UTC 版)
「燕京等処行尚書省」の記事における「第4代皇帝モンケの治世」の解説
1251年にモンケが即位すると、自らの即位に反対した旧オゴデイ・グユク政権の閣僚が粛正されたが、ヤラワチは処分を受けることなく改めてヒタイ(漢地)の統治を委ねられた。モンケはオゴデイ時代と同様に帝国領をヒタイ(漢地)・トルキスタン・イランの3地方に分割し、それぞれヤラワチ、マスウード・ベク、アルグン・アカを総督として統治を委ねていた。 モンケ時期における漢地統治の大きな変化は、従来の統治機関(=燕京等処行尚書省)に加えて、モンケの弟のクビライが「漠南漢地軍国庶事」を任せられたことにあった。クビライは雲南・大理遠征を成功させた後、肝心の南宋遠征を進めず漢地経営に専念したため、外征の継続を望む皇帝モンケと対立するようになっていった。クビライに対する疑心を懐いたモンケはクビライを南宋遠征軍の司令官から更迭し、クビライの所領に自らの腹心アラムダールを送り込み、クビライの統治権を奪った。アラムダールは漢文史料において「陝西省左丞相」と称されており、この過程で「燕京行省」から「陝西行省」が分離独立したとみられる。 しかし、1259年にモンケが急死すると、次代のカーン位を巡ってクビライとアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発した。この内戦にクビライが勝利すると、「燕京行省」及び「陝西行省」はクビライの設置した統治機関=中書省(腹裏)に吸収併合され、「燕京行省」は歴史上からその姿を消した。
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