第4代モンゴル帝国皇帝モンケの時代
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「モンゴル帝国」の記事における「第4代モンゴル帝国皇帝モンケの時代」の解説
モンケはオゴデイが行った占領地域に統治政策を受け継ぎ、帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ砂漠以南の漢地(中国)、ハンガイ山脈以西の中央アジア、アム川(アムダリア川)以西の西アジアの3大ブロックに分けて地方行政機関(行尚書省)を再編した。『元史』に載るいわゆる燕京等処行尚書省、別失八里等処行尚書省、阿母河等処行尚書省の3つの行尚書省がこれにあたり、マフムード・ヤラワチやサイイド・アジャッル、マスウード・ベク、アルグン・アカといった財務官僚たちこれらの管轄やその補佐として各地に任命された。さらに3人の同母弟のうち次弟のクビライを漢地の軍団の総督、三弟のフレグを西アジアの軍団の総督に任命してそれぞれにその方面の征服を委ねた。 クビライは1253年雲南・大理遠征にて大理国を征服し、フレグは1256年にはアラムートのニザール派を、1258年にはバグダードのアッバース朝を壊滅させた(→バグダードの戦い)。一方、かねてからモンケに服属を表明していたアナトリアのルーム・セルジューク朝やファールスのアタベク政権サルグル朝、ケルマーン州のカラヒタイ朝などのムスリム(イスラム教徒)諸政権に加え、大小アルメニア王国やグルジア王国など、イラン以西の諸勢力の掌握に努めた。さらにモンケは南宋との決戦のため自ら長江上流域に侵入したが、苦戦を重ねた末に1259年に陣中で疫病に罹って没した。
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