サイイド・アジャッル
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サイイド・アジャッル・シャムス・ウッディーン(ペルシア語: سید اجل شمسالدین、Sayyid Ajall Shams al-Din、1211年 - 1279年8月21日[1])は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えて中国の行政官を務めたムスリム(イスラム教徒)の官僚。漢字表記は賽典赤。ラカブ(尊称)はシャムス・ウッディーン(赤贍思丁)、イスム(名)はウマル(ペルシア語: عمر、Umar、烏馬児)。ペルシア語資料では、サイイド・アジャッル・ブハーリー سيد اجلّ بخارى Sayyid Ajall Bukhārī の名で表れる。
人物・経歴
前半生
預言者ムハンマドの末裔を称するサイイドの名家の出身で、中央アジアの中心都市のひとつのブハラ(現在のウズベキスタン)に生まれ育った。チンギス・カンの中央アジア遠征のとき、父のカマール・ウッディーン[2]が1千騎の配下とともに文豹・白鶻を献上してモンゴル軍に投降し、以後シャムス・ウッディーンはモンゴル帝国に仕えることとなった[3]。モンゴル帝国に仕えたシャムス・ウッディーンは宿衛(ケシクテイ)に入り、本名のかわりに「高貴なサイイド(聖裔)」を意味するサイイド・アジャッルの通称で呼ばれて尊敬を受けた[4]。
チンギス・カンの死後、オゴデイ・カアンの代に北中国の山西地方の太原平陽二路ダルガチ(行政官)を歴任し、次いで燕京の中州ジャルグチ(断事官)を務めた[5]。モンケ・カアン元年(1251年)にマフムード・ヤラワチを長官として北中国全土を管轄するいわゆる燕京等処行尚書省が設置されると、サイイド・アジャッルとニザーム・ウッディーン(匿昝馬丁)がヤラワチらの補佐を命じられた[6][7][8][9]。さらにその後、燕京周辺の行政の最高責任者である燕京路総管に充てられ、モンケ・カアンによる南宋領四川への親征(南宋遠征)が始まると、兵站を担当して供給を途絶えさせることがなかったという[10][11]。
なお、モンケ治世中のサイイド・アジャッルの活動について、後にクビライ自らが「彼(塞咥旃=サイイド・アジャッル)はモンケ・カアンに仕えながら、常に密かに朕を助けて財を用いてくれたものだ」とブクムに語ったとの逸話がある[9]。もっとも、この時ブクムは「もし今内府の財物をもって親王と密かに結ぶ者がいるとしたら、陛下はどのように思うでしょうか」と述べ、クビライは「朕の失言であった」と答えたとも伝えられることから、クビライ自身も当時の禁忌を破ってサイイド・アジャッルと昵懇の関係を築いていたという自覚があったようである[12][13]。
クビライの治世初期
モンケの死後、弟のクビライが中国と内モンゴルを制してカアンを称すると、中国にいたサイイド・アジャッルもクビライの幕下に入り、中統元年(1260年)5月に燕京宣撫使に抜擢された[8]。中統2年(1261年)6月には真定路宣撫使の劉粛とともに吏・戸・礼三部尚書の地位を得て[14]、さらに同月中に宰相格の中書平章政事に昇格となった[8][15]。先に収税を担当する戸部の事務を委ねられていることからして、サイイド・アジャッルは財政担当の宰相格として抜擢されたようである[8][15]。
中統5年(1264年)に南宋との最前線である陝西・四川方面を管轄する行中書省が新設されたのにあわせてその平章政事に転出、中国西部の行政の最高責任者となり、至元7年(1270年)からは長江上流の四川地域を抑えてクビライによる南宋の併合を後方から支援した[16][17]。
この頃、南宋の将軍で嘉定を守る昝万寿がみだりに侵掠を行わないサイイド・アジャッルに感服して酒を贈った事があり、周囲の者は毒殺を警戒して飲まないように勧めたが、サイイド・アジャッルは一笑に付してこれを飲んだため、昝万寿は一層嘆服したとの逸話が伝えられている。また至元8年(1271年)からは襄陽包囲戦が始まり、これに連動してサイイド・アジャッルは鄭鼎とともに水陸双方から嘉定へ進軍し、南宋の将2人を捕らえ、戦艦28艘を獲得する功績を挙げている[18][17]。
雲南行省の統治
即位以前のクビライが大理国を征服(雲南・大理遠征)して以来、雲南地方ではまず人口調査が行われ、その結果を元に「十九万戸」が設置されてモンゴル帝国の支配下に組み込まれた[19]。さらに、クビライが即位すると至元4年(1267年)に自らの息子のフゲチを雲南王に封じて派遣し、雲南王とその配下の王相府による雲南支配が企図されていた[20]。ところが、至元8年(1271年)にフゲチが暗殺されるという事件が起こり、事態の収拾のためアルグ・テムルやトゥクルクといった皇族が雲南に派遣されたものの、雲南王による統治体制は頓挫してしまった[21]。
そこで、早急に安定した雲南統治を確立すべく、クビライは新たに雲南等処行中書省(雲南行省)を設置し、至元11年(1274年)[22]に行政手腕が高く評価されていたサイイド・アジャッルがその統治を委ねられ、雲南行省平章政事を拝命した[23]。命を受けたサイイド・アジャッルはまず雲南の地理に詳しい者を求め、その山川城郭・駅舎軍屯を地図に描かせてクビライに献上したため、喜んだクビライは出発に当たって鈔50万緡および数えきれぬほどの金宝を下賜したという[24]。
一方で、先に雲南に出鎮していたトゥクルクはサイイド・アジャッルによって実権を奪われることを警戒し兵を集めていた[25]。そこでサイイド・アジャッルは先に息子のナースィル・ウッディーンを派遣し、事前協議のためトゥクルクの側からも配下を派遣するよう要請した。トゥクルクの配下である撒満・位哈乃らがナースィル・ウッディーンとともに至ると、サイイド・アジャッルはこれを歓待し、さらに新設の雲南行省の断事官に任じることを提案した[25]。報告を受けたトゥクルクはサイイド・アジャッルの提案を喜んで受け入れ、これによってサイイド・アジャッルは雲南での行政を円滑に進められるようになったという[26][25]。
サイイド・アジャッルは雲南に駐留していた6年間でモンゴル軍の協力を取り付けて雲南の開発に力を尽くし、雲南から領外のインドシナ半島にかけて居住する様々な民族には恩恵を施してよく従わせたので、至元16年7月13日(1279年8月21日)に死去したときは大いに惜しまれたという。死後、大徳元年(1297年)に守仁佐運安遠済美功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・咸陽王の称号を追贈され、忠恵と諡された[27]。
息子には、父の地位を継いだナースィル・ウッディーン(納速剌丁)、広東道宣慰使司都元帥となったハサン(哈散)、フサイン(忽辛)、建昌路総管となったシャムス・ウッディーン・ウマル(苫速丁兀黙里)、雲南諸路行中書省平章政事となったマスウード(馬速忽)らがいた[28]。
評価

サイイド・アジャッルがクビライのもとで中国西部の行政を担当した15年の間、彼の息子や一族たちも各地の行政長官を務め、徴税と開発に力を尽くした。彼らの動向は同じ時期に首都の大都・上都から江南にかけての中国中央部の財務長官であったアフマドの一族のそれと対応しており、財務に優れた色目人の官僚を積極的に起用したクビライの経済・行政政策の特性のあらわれと言える。
しかし、サイイド・アジャッルは行政官として清廉に振る舞い、地方の開発に尽くしたことから上下を問わず非常に敬愛されたのは、民衆や同僚から非常な恨みを買ったアフマドとまったく対照的である[17]。同時代人である王惲は著書の『中堂事記』において、サイイド・アジャッルを「財を軽んじ、民を安んじ、甚だ人望あり」と評しており[29]、早くから人望ある人物として高く評価されていたようである[30]。
アフマドが至元19年(1282年)に暗殺された後、その一族は不正を弾劾されて失脚したが、サイイド・アジャッルの子孫はその後も元代を通じて中国西部の地方行政に大きな足跡を残した。アフマドは後世に姦臣として名を残したが、サイイド・アジャッルは対照的に現在に至るまで非常に評価が高く、とくに雲南省の人々は雲南の開発者として非常に敬愛している。雲南省には言語的・形質的に漢民族と同化したムスリム(回族)が現在も数多く住んでいるが、彼らの多くはサイイド・アジャッルの末裔を称し、明の大航海者の鄭和もその一族である。
サイイド・アジャッル家
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カマール・ウッディーン Kāmāl al-Dīn 苦馬魯丁 |
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サイイド・アジャッル シャムス・ウッディーン Sayyid Ajall Shams al-Dīn 賽典赤贍思丁 |
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マスウード Masʿūd 馬速忽 |
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シャムス・ウッディーン・ウマル Shams al-Dīn ʿUmar 苫速丁兀黙里 |
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フサイン Ḥusayn 忽辛 |
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ハサン Ḥasan 哈散 |
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ナースィル・ウッディーン Nāṣir al-Dīn 納速剌丁 |
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クルク Kürek 曲列 |
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ボルカン Borqang 伯杭 |
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バヤンチャル Bayančar 伯顔察児 |
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ウマル ʿUmar 烏馬児 |
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バヤン(アブー・バクル) Bayan(Abū Bakr) 伯顔 |
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エレシ Eleši 也列失 |
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脚注
- ^ 馬注 (中国語). 『賽典赤家譜』上 . "元世祖至元十六年己卯、即南宋端宗景炎三年、七月十三日、王薨于滇省会城。贈守仁佐運安遠済美功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・咸陽忠恵王。妻阿沙塔里路蘇、封忠恵夫人。生五子、長納速剌丁、次哈散、三忽辛、四苫剌丁兀黙里、五馬速忽。"
- ^ 『元史』賽典赤贍思丁伝にはサイイド・アジャッルの父について記載がないが、サイイド・アジャッルの曾孫のエレシ(也列失)が後至元5年(1339年)に立てた「済瀆重建霊異碑記」によると、サイイド・アジャッルの父は苦馬魯丁(Kāmāl al-Dīn)という名であったという。後述するように、「チンギス・カンを迎えて降った」後、始めて東アジア方面に移住したのはカマール・ウッディーンであった(楊 2003, pp. 354-355)。
- ^ 『元史』賽典赤贍思丁はシャムス・ウッディーン自らが1千の部下を率いてチンギス・カンに降ったとするが、同列伝の「至元十六年卒、年六十九」という記述から逆算するとこの頃のシャムス・ウッディーンは僅か10歳前後であり、上記の逸話は疑わしい。恐らくはこの点に基づいて『新元史』は生年を10年繰り下げているが(至元十六年卒、年七十九)、何らかの典拠を伴うものではなく、史実と見なせない。中国人研究者の楊志玖は、実際にチンギス・カンへの投降を主体的に行ったのはシャムス・ウッディーンの父のカマール・ウッディーンで、両者がともに「サイイド・アジャッル」と称されていたことから、両者の事蹟が混同されたのであろう、と論じている(楊 2003, pp. 354-355)。日本人研究者の向正樹も楊志玖の見解に従っている(向 2024, p. 328)
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「賽典赤贍思丁、一名烏馬児、回回人、別菴伯爾之裔。其国言賽典赤、猶華言貴族也。太祖西征、贍思丁率千騎以文豹白鶻迎降、命入宿衛、従征伐、以賽典赤呼之而不名」
- ^ 楊 2003, p. 192.
- ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「元年辛亥……命皇弟忽必烈領治蒙古・漢地民戸。遣塔児・斡魯不・察乞剌・賽典赤・趙璧等詣燕京、撫諭軍民。……以牙剌瓦赤・不只児・斡魯不・覩答児等充燕京等処行尚書省事、賽典赤・匿昝馬丁佐之」
- ^ 牧野 2012, pp. 171–172.
- ^ a b c d 楊 2003, p. 193.
- ^ a b 陳 2005, p. 455.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「太宗即位、授豊浄雲内三州都達魯花赤、改太原平陽二路達魯花赤、入為中州断事官。憲宗即位、命同塔剌渾行六部事、遷燕京路総管、多恵政、擢採訪使。帝伐蜀、賽典赤主饋餉、供億未嘗闕乏」
- ^ 牧野 2012, p. 359.
- ^ 『元史』巻130列伝17不忽木伝,「帝毎顧侍臣、称塞咥旃之能、不忽木従容問其故、帝曰『彼事憲宗、常陰資朕財用、卿父所知。卿時未生、誠不知也』。不忽木曰『是所謂為人臣懐二心者。今有以内府財物私結親王、陛下以為若何』。帝急揮以手曰『卿止、朕失言』」
- ^ 陳 2005, pp. 455–456.
- ^ 牧野 2012, pp. 311–312.
- ^ a b 牧野 2012, p. 218.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「世祖即位、立十路宣撫司、擢燕京宣撫使。中統二年、拝中書平章政事、皆降制奨諭。至元元年、置陝西五路西蜀四川行中書省、出為平章政事。蒞官三年、増戸九千五百六十五・軍一万二千二百五十五・鈔六千二百二十五錠・屯田糧九万七千二十一石、撙節和買鈔三百三十一錠。中書以聞、詔賞銀五千両、仍命陝西五路四川行院大小官属並聴節制」
- ^ a b c 楊 2003, p. 194.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「七年、分鎮四川。宋将昝万寿擁強兵守嘉定、与賽典赤軍対塁、一以誠意待之、不為侵掠、万寿心服。未幾、賽典赤召還、万寿請置酒為好、左右皆難之、賽典赤竟往不疑。酒至、左右復言未可飲、賽典赤笑曰『若等何見之小耶。昝将軍能毒我、其能尽毒我朝之人乎』。万寿嘆服。八年、有旨。大軍見囲襄陽、各道宜進兵以牽制之。於是賽典赤偕鄭鼎率兵水陸並進、至嘉定、獲宋将二人、順流縦筏、断其浮橋、獲戦艦二十八艘。尋命行省事于興元、専給糧餉」
- ^ 川本 2013, pp. 198–202.
- ^ 松田 1980, pp. 257–258.
- ^ 松田 1980, pp. 258–259.
- ^ サイイド・アジャッルが雲南に赴いた年次について、『元史』の中だけでも世祖本紀(至元10年)・賽典赤伝(至元11年)・愛魯伝(至元10年)・信苴日伝(至元11年)とばらばらであるが、これは「クビライより命を受けたのが至元10年中」「実際に雲南に到着したのが至元11年に入ってから」と解釈するべきである(楊 2003, pp. 350-351)。
- ^ 松田 1980, p. 259.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「十一年、帝謂賽典赤曰『雲南朕嘗親臨、比因委任失宜、使遠人不安、欲選謹厚者撫治之、無如卿者』。賽典赤拝受命、退朝、即訪求知雲南地理者、画其山川城郭・駅舎軍屯・夷険遠近為図以進、帝大悦、遂拝平章政事、行省雲南、賜鈔五十万緡・金宝無算」
- ^ a b c 松田 1980, p. 260.
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「時宗王脱忽魯方鎮雲南、惑于左右之言、以賽典赤至、必奪其権、具甲兵以為備。賽典赤聞之、乃遣其子納速剌丁先至王所、請曰『天子以雲南守者非人、致諸国背叛、故命臣来安集之、且戒以至境即加撫循。今未敢専、願王遣一人来共議』。王聞、遽罵其下曰『吾幾為汝輩所誤』。明日、遣親臣撒満・位哈乃等至、賽典赤問以何礼見、対曰『吾等与納速剌丁偕来、視猶兄弟也、請用子礼見』。皆以名馬為贄、拝跪甚恭、観者大駭。乃設宴陳所賜金宝飲器、酒罷、尽以与之、二人大喜過望。明日来謝、語之曰『二君雖為宗王親臣、未有名爵、不可以議国事、欲各授君行省断事官、以未見王、未敢擅授』。令一人還、先稟王、王大悦。由是政令一聴賽典赤所為」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「賽典赤居雲南六年、至元十六年卒、年六十九、百姓巷哭、葬鄯闡北門。交趾王遣使者十二人、斉絰為文致祭、其辞有「生我育我、慈父慈母』之語、使者号泣震野。帝思賽典赤之功、詔雲南省臣尽守賽典赤成規、不得輒改。大徳元年、贈守仁佐運安遠済美功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・咸陽王、諡忠恵」
- ^ 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝,「子五人。長納速剌丁。次哈散、広東道宣慰使司都元帥。次忽辛。次苫速丁兀黙里、建昌路総管。次馬速忽、雲南諸路行中書省平章政事」
- ^ 『秋澗先生大全集』巻82中堂事記下,「四月甲午、有旨趣平章王文統南行、於是定省府掾属去留者、是曰『燕京路宣撫賽典只児』。回紇之有良徳者、自云世家同中国孔子宗、系累朝為断事官、軽財安民、甚有人望、後以平章政事終于雲南」
- ^ 牧野 2012, p. 312.
参考文献
- 『元史』巻125列伝第12賽典赤贍思丁伝
- 『新元史』巻155列伝52賽典赤贍思丁伝
- 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年
- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
- 松田孝一「雲南行省の成立」『立命館文學』通号 418~421、1980年
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 陳得芝「元代回回人史事雑識(四則)」『蒙元史研究丛稿』人民出版社、2005年
- 楊志玖『元代回族史稿』南開大学出版社、2003年。 NCID BA62094153 。
関連項目
固有名詞の分類
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